離れる



今日は色々と雑用の日。


思えば子どもの頃から私は、現場から浮遊しやすいタイプだったような気がする。
フロイト学派の解離性障害のスクリーニング検査(DES 解離体験尺度)の結果、私はけっこう解離度が高かった。
どれぐらい高かったかというと、一般の対照群が4.4%だったところ、私は18%だったのである…
後期思春期が14.4%って、思春期よりも現実離れした日常を送っているという。いい大人だぞ。
解離性の病理がある可能性は30%以上と言われていて、25%までは病的ではないと考えられるそうだ。
こういう心理検査のお約束で、断定はできないものなのだけれど。

それにしても解離度が高くてびっくりだった。
ただし、催眠や瞑想などの非病理的な解離や、
習慣的活動の自動化や、不快な事項の自覚の排除など、
日常生活の中で認められる解離もあるそうだ。
これでしょうね。私の解離度の高さは。
他のことを考えて痛みから焦点を外すということは子どもの頃からよくやっていた。
そういえば出産直前も、前駆陣痛の強さを測ってもらっているときに、
え?今痛くないですか?歩けますか?って助産師さんに驚かれた。

それに、よくひとりで空想の世界に遊んでいた。
山の上の学校まで、 バスに20分ほど乗って、降りてから30分ほど歩く。
その間ずっとひとりでいろんなことを空想していた。
未だにそうかもしれない。歩くのが好きなのは、その間、ぼーっと空想しているのだ。
ああそうだ、私は昔からあまり変わっていない。
社会適応が上手になってきて、そういう現実離れした部分に気づかないふりをし始めただけだ。多分。
そして今、現実の現場だけではないメタの世界を思い出し、
社会適応にも応用させようとしている。


子どもたちが喧嘩をする。
華々しく戦う。
彼らにはエネルギーが有り余っている。
私はふたりとも大好きなのに、怒ったり泣いたり叫んだりするのを聞いているのがたまらなく嫌だ。
この現場に私の意識を置いておく必要はない。
身体はここにあっても、私の意識は、パセージテキストをめくる。
きょうだいゲンカは子どもの課題。そして、年齢が進むと消える不適切な行動だ。
彼らは今、意見の違う相手との接し方を学んでいるところなんだろう。
私が介入しては、彼らの学ぶ機会を奪うことになる。
私が彼らの喧嘩が嫌いだということは、もう散々伝えているので重々ご存知だ。
そうして感情を落ち着けて、頭の中で好きな歌でもかけて、
 海苔の取り合いをしたりクッションが飛び交ったりしている食卓から私は解離する。
しばらくすると、ねえねえお母さんしりとりしよう、とか言って、
いったい今までの喧騒はなんだったのだろうかという時間がやってくるのだ。


見えていることだけが現実ではないだろう。
私が感じることは、どこまでもメタに上って、物語の中を生きることができる。
物理的な痛みさえ感じなくすることもできるのだ。
ありもしない快感だって、感じることもできるかもしれない。
幸も不幸も自分が作り出しているように、
快も不快も自分が作り出しているんだろう、きっと。
世界をそうである「かのように」作り出しているのは私だ。
「私」というものがある「かのように」思い込んでいる私が、作り出している。
私は世界から切り取った部分しか認識できないのだから、その切り出し方は、私に拠っているのだから。
私もほんとうは世界の一部なのだから。