私のお気に入り

今日は珍しく、自分の息抜きに時間とお金を使った。
美容院に行って、メガネを変えて、服も買った。
お茶をする時間はなかったが、今度ゆっくり行ってみよう。


一人で喫茶店に居座って、本を読んだりものを書いたりするのが好きだ。
そんな風にして贅沢な時間を使うこと、いつ以来していないだろう。
今、特に煮詰まっているわけではない。
オンライン勉強会とかその準備、パセージとかその準備、特に負担にもならない。
私はもう何かに頼らなくても、すべきことができるようになってきたようだ。
でも、してもいい自由があって、それを選ばないという自由を選ぶことが望ましい。
いつだって私は好きなことができるって思っていたいと思う。


だいたいが、私のほしいものなんて、ささやかなものなんだ。多分。
早期回想で、私は自分の一番ほしいものが言えない、というライフスタイルを発見してしまった。
しばらくぶらさげ続けていて、ようやく、私の一番ほしいものが何なのか、ちゃんと考えられるようになった。
私は、自分の一番望むものを欲してはいけないと思い込んでいた。
それを欲しいと伝えることが、恐いのではない、恥ずかしい。それは、はしたないことだと思うから。
だからよくないことだと思っていた。

 

物を選ぶのが苦手なのは、これも関係しているのだろう。
一番ほしい物は、選ぶべきではないというルールが発動する。
そして、一方で私は嫌いな物もけっこうあるのだ。
だからまず、選択の範囲を定めることにエネルギーが要る。
その中から、予算制約、実用性、審美性、耐久性、それを買うという正当性、もろもろをクリアできる物を選ばなければならない。
だから一度選んでしまったら、次からは同じ選択基準で同じような物を選び続ける。
そしてその選択を変えるときは、大幅に変えて、もう元の選択には戻らない。
極端である。


今まで、髪型も、小物も、服も、妥協してきた。
でも最近は、ようやく、私の一番のお気に入りを選べるようになった。
私がよく見えるように似合うのを一緒に探してくださいって、仲良しの美容師さんに厚かましくお願いしたりする。
そういう意味での恥じらいがなくなった 笑
今日はメガネ屋さんの親切なお姉さんに、これとこれと、どっちが似合うと思います?って聞いてみた。
服屋のお姉さんにもあれかこれか、ニットのプレゼンをしてもらった。試着もした。
ひとつひとつの物を選ぶことを、楽しめるようになってきた。
それらは私の延長だから。
お店のお姉さんたちは、私がこだわることを、喜んでくれる。それがとても嬉しい。
まあ、喜んで一緒に考えてくれそうな素敵なお姉さんに出会えたときに買うんだけど。


見た目にこだわるのが恥ずかしいと思い込んでいたうちは、私は自分の心地よさを追求することを恥ずかしい、はしたないことだと思い込んでいた。
でも自分の心地よさを考えるということは、自分を知っていく努力のひとつだと思う。


私は自分の一番ほしい物を欲しいと言いにくい人間なんだって知って、
私は自分の一番ほしい物が何なのか、意識できるようになった。
それを手に入れるためにはたくさんの努力が必要かもしれない。
手に入れるには時間がかかるかもしれない。
結局手には入れられないかもしれない。
だけどたとえそういう結末がやってくるのだとしても、

私はこれが好きだなって、そう感じながら、手に入れられないことを受け入れたいと思う。
すっぱい葡萄という自己欺瞞をしながら生きるのは、とても辛いと思うから。