捧げる

今日はカウンセリングと、オンライン勉強会と、オンライン事例検討会でした。

 

アドラー心理学を学んでいることが、
少しだけ誰かのお役に立てるようになってきたことがとても嬉しいです。
そしてそれを、私が私のためでなく、
お役目として引き受け、喜びたいと思えるようになってきたことも嬉しいです。


私は自分を世のため人のためお役に立たせることが望みなのです。
そうやって自分を優越の位置においておきたいのです。
これは、私がたとえ世の中に対して貢献的で建設的な行動をしていたとしても、
動機は不純であると思うのです。
自分の優越性追求のために、という自己執着はきちんと見据えていたいです。
なぜなら自己執着は、共同体感覚の反対だから。

時折、自己執着は野田先生の独自の用語じゃないかなんていう見解も見聞きしますが、
Ichgebundenheitというドイツ語で、アドラー自身が使っている言葉です。

 


もしかしたら私の行動は同じかもしれないけれど、
でも、共同体感覚に向かっているかどうかを確認してから動きたいと思います。
とても難しいんですけどね。
いつだって私は自己執着を握りしめています。
良いことをして、人々に賞賛されたいもの 笑
だって舞台に立ってライト浴びて、トランペット吹き鳴らしたい人間ですよ。
まなざしと拍手を快感に感じる人間です。
無人の客席の前でなんて演ってられないです。
(あ、私はリハーサルが好きじゃないのでした。お客さんがいないからなんだろうな…)


こういう業の深い私ではありますが、
チベット仏教のおかげで、少しだけ謙虚に近づける構造の中に自分を組み込むことができました。
それは、善い行いをしても、それを仏さまにお捧げしなければ、善業を積むことにはならないという、
回向(えこう)というシステムです。
善いことは私のために行うのではなく、それは仏さまたちのために、
一切衆生のために祈っておられる仏さまたちに捧げるために行うものなのです。
これはとても素敵な物語だなと私は思います。

 

今日お聴きしたクライアントさんの素敵な決断、相手役さんを思うあたたかい心、できることをしようという勇気、
それらすべても
クライアントさんにセラピストとして働きかけることのできた私の行動も、
仲間たちにオンラインでお話ししたクライアントさんの努力や成長も、
それをみんなで分かち合い、喜び合ったことも、
それらすべても
私の幸せなんじゃなくて、仏さまに捧げる贈り物なんだって知ったのです。
そこに、「私」というものがただの媒介として存在する。
そのことを嬉しく思います。


お役目はあらゆるところから降りかかってきます。
この私に向かって。
もしも私が仏さまと世界とを結びつけるための媒介なのだとすれば、
世界から要請されるあらゆるタスクを、ありがたくお引き受けしようと思います。
とはいえ、私にできることに限りはあります。
なんでもそのままに引き受けて責任を果たせないという結末は、できる限り避けたいと私は思います。
だから、私の状況、事情、限界などについては、きちんと説明をし、
世界に対して、そういう私をどのように使っていただけますか?と、選んでもらう。
目標の一致をていねいにとっていく。
そうやって私を使っていただこうとしています。

 

そうやって、パセージで学んだことも含めて、すべてが繋がって、私の成長に役立っています。
そしてパセージのページを思い出すたびに、そのとき共に学んだ仲間たちのことも思い出すのです。


パセージリーダーやカウンセラーは、アドラーとクライアントさんたちを結びつける透明なパイプなんだと教わりました。
そこに私の意見はいらない。そこに私の執着はいらないのです。
それがそのまま、仏さまとクライアントさんとを結びつける「私」という存在と、重なるようになりました。