還ってくる

今日は野田先生の論文のオンライン勉強会と、チベット仏教のオンライン勉強会だった。

 

どんな宗教でもそうなのかもしれないけれど、
仏教の実践はアドラー心理学の実践よりもはるかに難しく、厳しい。
パセージレベルのお作法すら、自分の気分の波によってかなぐり捨てる私である。
自分のために何かをしたいと思うことはすべて悪業であるという教えを知ってしまうと、
もう、私は悪業しか積んでないんじゃないかと思う。


早期回想、中期回想の冒険で、自己執着を言語化し続けている。
自己欺瞞を暴き続けている。
そうしているので、いかに私が煩悩にまみれているか、以前よりずっとクリアに見えてしまっている。
なので私がいかに菩薩から遠いところにいるか、よくわかる。

せめて十不善だけは断ちたい。
と書きながら、今日1日だけでも私は妄語と悪口を言ってしまっている。


しかし不思議なことに、私は自分の至らなさを実感しているが、ひどく落ち込むことはない。
それは、教え導いてくださる師がおられるからだ。
共に学ぶ仲間がいるからだ。

 

これはまったく、アドラー心理学の治療共同体の構造と同じである。
アドラー自身、アドラー心理学は科学の範囲内のものとして作ったけれど、
何らかの宗教と組み合わせて機能するようにデザインしたと野田先生から教わった。

 

私はいつも自分の至らなさを実感しているが、
どのように自分を成長させていけばいいのか、進むべき目標を知っているから、

ひどく落ち込むことはない。
落ち込むという行動さえ、
自分が世の中のために役に立つための責任を放棄するためという目標に向かう行動であると、
私は知っているので、あまり落ち込んでいられない。
私は責任を放棄する卑怯者にはなりたくないからだ。

こういうことを優しく厳しく、忍耐強く教え導いてくださる師たちがおられる。
そして、共に学ぶ仲間がいる。

 


このような善い果を受けているのは、それは前世で善業を積んだからだと考えるそうだ。
確かにそうなのかもしれない。
人間に生まれたこと、家族に恵まれたこと、環境に恵まれたこと、
こうして仏の教えに出会えたこと、アドラー心理学に出会えたこと。


まだ一本の線で描けるような学びでもないのだけれど、
自分を律するという意味で、仏教とアドラー心理学の構造はたいへん似ていると思う。
課題の結末はすべて自分にふりかかるということ。
果は、すべて自分にかえってくるということ。
おそろしくシンプルで、おそろしく厳しい。
しかし、私の今の行動が、私の明日からを変えていくということに、私は希望を持つことができる。
誰のせいにもできない。すべては私にかかっているのだ。