この声は届くのか

今日は絶対的休日。

シンポジウムの原稿案を練ったり、家事をしたりして過ごしている。

夜は、少しでも本を読み進められたらいいなと思う。

 

毎日ブログを書くようになって、文章を作ることがずいぶんと楽になってきた。

今までも好きだったけど、毎日書き続けることはできなかった。

公的に発表する文章を書くのは、書きながらすぐに自信を失ってしまって、

いい文章を書けないなあという劣等の位置から這い上がって、

また書き続けては落ち込むという、

感情の起伏を経なければ文章を仕上げることができなかった。

 

今は、文章なんて一日一夕で上手くなるようなもんではないとわかった。

相変わらず私は

私にだけわかるような不親切な文章を書いているに違いない。

いい文章というのは、私一人の力で書けるものではないと私は思っている。

だから、ひとつには私自身が書くということを質、量、ともに訓練することが必要で、

ひとつには、その文章を読み、吟味し、添削する、よい編集者の力を借りることが必要だと思っている。

 

 

私は小学校1年生のときから、作文を書くのが好きだった。

とにかくたくさん書きましょうとおっしゃる先生で、

鉛筆止まらん病になってくださいとおっしゃった。

私は真面目に、たくさんたくさん書いた。

そのことで真面目なよい生徒として所属できたのかもしれないな、と今思う。

 

いつ頃からだったか確かではないが、

おそらく1年生の2学期ぐらいからか、毎日の宿題に作文(あのね帳)が出るようになってから、

書けた文章は、まず母に見せるようになった。

誤字や句読点の誤りを添削することが母の主眼だったかもしれないが、

私としては、読んでもらうことで、母に書かれた内容を知ってもらうことが楽しみだった。

私が書き、

母が読んで添削したり、この表現をもう少し推敲した方がいいんじゃないかと言ったりして、

私が推敲し、また母に読んでもらう。

それを何往復も繰り返す。

そして、いいものになったね、と二人で喜ぶ。

そういう作業は、なんと、小学校中学校高校と続き、

大学の卒論だけはさすがに母に添削してもらうことはなかったが、

現在、頼まれ仕事の挨拶文とかアドレリアンへの寄稿文など、

様々な文章を未だに私は母に読んでもらい、添削してもらっている。

(このブログは添削なしですけどね。ほぼ推敲もなしの一発書きである。)

 

母は、私の担当編集者なのだった。

今は私には母以外にも、編集者として力を貸してくれる友人がいる。

夫も、ときどき添削を手伝ってくれる。

私はとにかく、自分の文章を読んでもらえることが嬉しいのだ。

私の文章について意見を聞かせてもらうことが嬉しいのだ。

そしてよい文章を作り上げる作業が好きだ。

 

 

私は自分自身でも、

文章を一度バラバラにしたり、入れ替えたり、削ったり、書き加えたり、

そういう編集作業をするのがとても好きだったりする。

その作業を行うときは、自分の視野を広げるように努めるけれど、

やはり自分の視点だけでは限界がある。

他の方の意見をいただけると、私の考えがより深まり、奥行きが生まれる。

そうして形を整えていき、やがてできてくるものは、

はじめ自分がイメージしていたものとは違うものに変わっている。

その作業を経て、私自身の考えが明らかになり、わずかに成長しているような気がする。

 

だから、私は公にする私の文章について意見をいただくことをとても大切に思っている。

公にする原稿は、読者ありきのものだ。

母や友人や夫という、私をよく知っている人ではない、

未知の読者のあなたにこの声は届くのだろうか。

そういう疑いをいつも抱いて、しかし届けられるようにと願って、

私は言葉を探している。