フェミニズムとの決別

今日はアドラーの著作のオンライン抄読会でした。

日中はドイツ圏の職人をとりまく政治経済についての本と、
アドラーの著作と、
世紀末ウィーンについての本を読んでいました。

 

 

抄読会では、男性的抗議(Masculine protest)がテーマでした。
これは女性性の否定、男性的行動を誇張することで劣等感を補償する、ということなのですが、
1920年代の著作であるにもかかわらず、現代でもまったくそのまま通用する話で、
驚いてしまいました。
1920年代のウィーンは、女性の参政権はまだ認められていなかったはずですし、
社会は男性が中心だった時代です。
現代の日本の方がずっと男女が平等という意識が浸透している社会だと思います。
だけど、現代の日本でも、女性性を受け入れられない女性はとても多いです。


アドラーは、子ども時代に正しい性の役割を知り、それに対して準備していれば、
家庭の雰囲気が、女性が無能力であることや男性の特権を強調するものでなければ、
後の人生における多くのトラブルは回避される、と書いています。

アドラーは昔に社会主義に傾倒していた時期があり、
政治でもって、社会を変えることによって、人々が幸せになると思い描いていた人です。
けれども、第一次世界大戦で軍医として従軍した後、
政治でもって幸せな社会は作れないという考えに変わり、
子どもの教育が重要なのだと、幸せな家庭を作り幸せな子どもを育て、
幸せな子どもたちが幸せな大人になってまた幸せな家庭を作り社会を作っていくことでのみ、
社会が変わると考えるようになりました。

男性的抗議についての考え方も、このアドラーの考え方が表れていると思います。

 

 

私は多分とても恵まれて育ったので、
女性であることを劣っていることだとか、不利だとか感じることはほとんどありませんでした。
だからかえって、結婚するとなったときに、
周囲から、奥さんになるっていうことは夫を立てることだとか、
女は結婚という逃げ道があるからいいなとか、
女性というものに付随する様々な意見を聞いて、ひじょうに混乱しました。
私だけが生活が変わり、夫の生活は何も変わらない。
…このことは、私の結婚についてだけの話だったかもしれませんが。
このとき初めて、私は女性性について劣等感を感じました。
それまで、自分が女性性が薄いなということについて劣等感を感じたことはありましたが、
自分が女性であるということに劣等感を感じたことはなかったのでした。
ただ、このことは、夫に非があったわけでもなく、親に非があったわけでもありません。
私が周囲の言葉に過剰に反応したというだけです。
だって、すべては私自身のとらえ方次第でしたし、
実際私の身に起こった不公平は、私が苗字を変えなければいけなかったことだけでしたから。


それで、一時期フェミニズムに傾倒したりもしたのですが、(黒歴史です 笑)
私はフェミニズムの研究にも、いくらか重要なものもあると思いますが、
基本的には、女性をめぐる問題については、いくら社会のシステムを変えても、
そのシステムを運用する個人個人の意識が変わらないことには、
女性が女性性に劣等感を持ちたくなる現実は変わらないだろうと思いました。
そして、個人の意識を変えるというのは、
いくら女も男と同じ人間だ!と叫んだって、変わらないだろうと思ったのでした。


女と男は同じ人間だけど、どこまでいっても違う生き物ですから。
その違いは、どちらが劣っているとか優れているとかいうことではなくて、
違っていることによって生物として種が保存されていく。
違っていることによって、文化的にも豊かでいられる。
過激なフェミニズムは、その差異をなくそうとしているようで、
とても不自然で気持ち悪いなと思ったのでした。
フェミニズムは、男女が同等であることを望んでいるのでしょう。


とはいえ、女性であることが不利な社会というのは問題であると思います。
結婚にあたって、仕事をどうするかを考えなければいけなかったり、
妊娠出産にあたって、仕事をどうするかを考えなければいけなかったり、
問題はあります。
でもそれは、実際はシステムの問題だと思います。
結婚は女性だけのはなしではないし、
妊娠出産だって、多くの場合は女性1人のはなしではないからです。
それらの問題が女性の問題とされ、女性の劣等性として結びつけられることこそが問題だと思うのです。

 

この方向で男社会をうらんでみても何も解決しない、と思ったのでした。
アドラーの言うように、人々の意識が変わることしか解決の方法はないと思います。
男性代表の父親と、女性代表の母親が、それぞれに違いを持ちながら、
その違いでもって愛し合いながら、協力して助け合って暮らすというモデルを見て、
自分の性を受け入れ、違う性と協力していくことを子どもが学ぶ。
結局、そういう当たり前だけど理想的な家庭を作っていくことでしか、
男女の平等は達成できないように思います。


男女の平等なんて、当たり前のようで、手垢にまみれた表現で、
あまり気にしていなかったのです。
でも、男性的抗議についてアドラーの書いたものを読んで、
神経症まで進んではいないけれど、苦しんでいる女性はたくさんいて、
それはこういう根深い問題につながっていたのかということに気づいたのでした。

 

対等であること平等であることと、同等であることは違います。
その違いがわからない限り、共同体感覚という思想もわからないだろうと思います。