遠きにありて想うもの

今日はアドラーの著作のオンライン抄読会だった。

パセージのチラシを印刷したり、ライブラリの文字起こしの相談をしたり、また新しい勉強会の相談をしたり、

細々したことをしていて、本は読めなかった。

 

ある種の劣等感は、理想からの引き算で生まれる。

私には、賢くなりたい、良い治療者になりたい、アドラー心理学の技術を巧く使えるようになりたい、もっと勉強したい

という欲望がある。

そして、勉強を続けてわかったことは、

私はそんなに賢くはないということ、

自分のカウンセリング技術はとても下手くそであること、

まだまだ良い治療者になるには程遠いということ

である。

これらは、事実として、そうである。

そして、私は勉強し続けることができる、ということもわかった。

 

傲慢な私は、野田先生のようになりたいと欲し、

勉強を続けていればいつか野田先生みたいになれると能天気に思っていた。

そういう私が幼く、愚かだったことに気づいた。

アドラー心理学の治療というものを学べば学ぶほど、

論理はシンプルなのに、おそろしく高度な技術、芸であると思う。

とても私にはできるようになるとは思えない。

そう思うようになった。

 

しかし、難しいということがわかるようになったことは私の成長だろう。

カウンセラー試験になかなか合格できなかったのは、

私が劣っていたからだと私は思い込んでいたけれど、

多分、アドラー心理学の治療が高度な技術である、という側面もあると思う。

高度な技術を身につけるためには、修練が要る。

 

私はアドラー心理学心理療法をできるようになりたいと思っている。

無謀なことだと思う。

だけど、それは今の私には無謀なことであるのは事実だけど、

1年後の私、5年後の私には、

やってできないことはないかもしれないことになっているかもしれない。

それは、誰にもわからない。

 

 

理想が高すぎるから、私は劣等感に苛まれてきた。

でも落ち着いて事実の欠片を集めてみれば、

私はパセージリーダーとしてなんとかやっているし、

カウンセリングもなんとかなんとか場数を重ねていっているし、

自助グループ活動もできているし、

母親として、妻として、娘として、一社会人として、

まあそれなりに社会に適応して、お役目を果たすことができている。

自分で自分を下に位置させることで、

理想を達成できないことの言い訳をしたいだけなんじゃないかと思う。

 

理想は、達成できないものだ。

私の理想はいつも高すぎるから。

だけど私は、その理想を現実的なところまで引き下げたくはない。

そんな人生はつまらないから。

ならば、どうせいつだってその手の届かない理想を追い求めるのであれば、

全然理想に届かないっていうことに落ち込むのは、もういい加減にやめよう。

野田先生のようになれるわけはない。

だけど、野田先生のようになれるように努力してみようと思う。

その道半ばで、とてつもなく遠いところで、私は生涯を終えるでしょう。

でも、今日の私よりは、近づけるはず。

私は何をすればいいか、わかったから。