インプット

今日は読み終えた本が数冊。
シンポジウムの発表に使えそうな部分が見つかってほっとしている。
だいたい話したいことはまとまってきた。

 

アドラーが生きた時代の前後のドイツ圏の文化、経済、生活、思想などを知ろうとしている。
私は世界史を真面目に勉強したことがないので、
まったく知識がなくて、読む本読む本、新しい情報ばかりで目が滑っていく。
だけど人間の脳味噌はすごいもので、私の意識は記憶することができていなくても、
だいたい同じテーマの本を5冊ほど読んだあたりから、
急に文章の意味している言葉が、意識にのぼってくる。
あ、この王様知ってるわ、とか、
この時にこういうことが起こったんだよね、知ってる知ってるって、
少し親しみを覚え始める。
それからもう5冊ぐらい読むと、だいたいのことが読めるようになってくる。
今はまだ読めるようにはなっていない。
この時期が一番しんどいけれど、やがて変化が起こるはずだから
それを信じて、ひたすら読んでいっている。

 

本に書かれた知識を記憶しようとしても、
私は頭が悪いのか、1度読んだだけでは記憶できないし理解もできない。
だから飽きるほど同じテーマの本を読んでいくことで、学ぼうとしてきた。
そういえばこれは、ロシア語通訳者の米原万里が同時通訳の仕事をする準備で、
本棚の棚1段2段の量を読んで、
その仕事に関する知識を詰め込むと書いていたことと同じだ。

 

文学的な本の読み方と、
知識を得るための本の読み方とは違う。
私は断然、文学的に読むことが好きだ。
(というよりは、それよりも、 耽美的に読むことが好きだ。
 耽美的に読むのは道楽だ。それでは何も学べない。)
文学的に読むことは、著者の意図と文脈とを正確に理解していく作業だ。
知識を得るために読むことは、なんだかスポーツのような感じだ。
この読み方は苦手だけれど、
まあこれしか浅学な私が賢くなるためには方法がないようなので、
またしばらくやってみようと思う。

 


私は本当に愚かだと思う。
なぜなら、自分のことを賢いと思い込むことが多いから。
そして人を愚かだと軽蔑するから。
いけないな、と思う。
陰性感情に引きずられそうになるときは、
私の狭い了見で意見を言葉にするのではなく、
この思考と感情から一度離れて、
私のすべき勉強にうずくまろうと思う。
私のすべきことは、カウンセリングと、パセージと、シンポジウムの準備と、
それから色々な目標に向かって勉強していくことだ。
アウトプットは、インプットの量に比例する。
やがてもう少し私が賢くなるまで、私の思考には黙っておいてもらおう。