贅沢な1時間

今日はほんっとうに久しぶりに、お友だちとお茶をしてきました。

彼女とゆっくりおしゃべりをするのも1年ぶりぐらいですし、

お友だちとお茶をするというのも、滅多にない機会でした。

とても楽しい時間を過ごすことができました。

 

コロナ禍のおかげで、気づかせてもらったことがたくさんあります。

ひとりでカフェで本を読んだり文章書いたり、

お友だちとカフェでおしゃべりしたり、

アドラーの講座や夫の出張先へ出かけたときに

知らない街の本屋をぶらぶら覗いてまわったり、

そういうことが私の小さな楽しみでした。

贅沢な暮らしだったと思います。

そのことに気づけたことは、幸せなことだと思います。

今はなかなかできないけれど、

できるできないに関係なく、

私の心地よさはそういうところにあるんだと、忘れないでいたいです。

 

 

おしゃべりをしていると、

今まではお友だちのお話の全貌が見えてから、あるいは私の話を理解してもらってから、

それについてあれこれ話し合うのが面白いって思っていたのだけど、

今は、その相手のお話を描いてもらうそのときから、その語り方も、

面白いって思えるようになっていることに気づきました。

エピソードをちゃんと受け止められるようになったのかなと思いました。

そうすると、お友だちの物語だけでなくて、

お友だちの相手役さんの物語が見えてきました。

今までは、話し合ううちに描き込みまくるので、

完全に友だちの主観の物語に浸かっていたのです。

でも、もっとそのエピソードは重層的で、もっと深い物語であると

感じられるようになりました。

 

その彼女がいつも相手役さんたちの良いところを見つけておられるから、

というのも大きかったかもしれませんが、

私はお話を聴くのが好きなんだなと気づきました。

本の中にも物語はある。

でも、目の前の人々の中にも、たくさんの物語がある。

人はみんな物語を生きているんだ、と思いました。

 

 

意見を文章にすると、乾燥していて、味気ないです。

物語として語れば、生き生きとして、命が通っていることを感じられます。

実際に顔が見えないコミュニケーションというのは難しい。

お茶でも飲みながら、穏やかに話し合える世界が戻ってくればいいなと思います。