預言

 

今日は絶対的休日。


しかし絶不調。
競合的で、陰性感情の塊である。
この氷を融かすには?
いや、この氷の冷たさを味わっていたいと思う自分がいる。
心のお寺の門は閉じている。
私は自分の感情と思考にとらわれている。
そのことを、まずは気づいているということに
正の注目を与えようと思う。
少なくとも、自己欺瞞には陥っていない。


私はとても怒っているし、絶望しかけている。
いつもと同じ冗長性。
「彼らと一緒にしてほしくない」と思っている。
私は相手を屈服させたいと思っている。
こういうときに動いても、陰性感情の連鎖を生むだけだ。
だから今は、黙ろうとしている。
それは私の成長だ。


しかし私はここまでしか成長できないのか?
…そんなのは嫌だ。
だからなんとか次の手を打たなければ。
やはり氷を融かさなければ。
その方向にしか解決がないことを私は知っている。
怨憎会苦から脱するためには、この自己執着を手離さなければならない。
しかしこの憎しみを私はまだ味わおうとしている。
そんな汚いもの、早く捨ててしまえばいいのに、
私はまだ相手を滅したいと思っているから、手離さないでいる。
濁っている。
美しくないな。

 


『人間知の心理学』アルフレッド・アドラー著、高尾利数訳、春秋社P10より引用する。

「つまりこの学問(アドラー心理学:筆者補足)は、軽率に、あるいは過剰に自分の知識をひけらかすことを許さないものであり、それゆえ謙遜になるように迫るものだということである。
ついでながら、自分ができることすべてを誇ったりひけらかしたりするのは、昔ながらの子供っぽい自慢に似たようなものであり、大人にとってはそういう態度はきわめていかがわしいものなのである。
それゆえわれわれはここで、待つことと、自己自身を吟味することを提案しようと思うし、人間知に奉仕しようとしてどこかで得た知識をもって、ひとの妨げにならないように提案したいと思うのである。
さもないとわれわれは今伸びつつあるこの学問とその目的にとって、新しい障害を作り出すだけになってしまうであろう。
なぜならば、われわれはそれによって若者の軽率さーたとえ熱心なものであれーだけが生み出すような過ちを犯さざるをえなくなるであろうからである。
われわれは、よく注意を払い続け、次のことを忘れないようにしたほうがいい。
つまり、われわれが、ある判断を下す前にまず、少なくとも完全な全体像を持っていなければならないこと、そして、われわれがそれによって他者に有益なことをなしうるのだという確信があるときにだけ、それをなすべきだということである。
なぜならば、たとえ正しい判断であれ、それを誤った仕方で、しかも正しくない場所で述べることによって、多くの害をひき起こしうるからである。」


野田先生が仰っていたが、アドラーの著作は預言の書であると私も思う。
アドラー心理学を学ぶことが、そのまま私を有用な人間に成長させてくれる。
そう信じて、学び続ける。
誰がどのように学んでいても、それは私には動かせないことだ。
私にできるのは、私を動かすことだけだ。