不肖の弟子

今日は野田俊作ライブラリのオンライン勉強会だった。

 

午前中は長男の学校の運動会だった。

夫も始めから最後までつき合ってくれて、送迎もしてくれた。

一時期不登校になっていた長男が、楽しく元気に過ごしているところを見られて、

とても嬉しかった。

友達の話や先生の話、授業の話、休み時間の話などなど、

今はいつも楽しそうに話してくれる。

ありがたいことだと思う。

 

でも、私たち夫婦は、

多くの保護者の良いと思うこととずいぶん考えが違っているようで、

全然溶け込むこともできず、運動会を純粋に楽しむこともできないのであった。

終始不機嫌な夫だったが、知り合いと話すときは爽やかな笑顔を見せていた。

私の友だちや知り合いにも、笑顔を見せてくれた。

社交的な人だと思う。

しかし私と次男とだけになると、すっと表情が消える。

ちょっと気になったので、帰宅してから聞いてみると、

やっぱりあの雰囲気が苦手だ、好きになれないとのことで、

長男のために耐えてくれていたんだなとわかった。

あなたは楽しそうにしていたね、と言ってくれたけど、

私もけっこう頑張っていましたよ、と言って、2人で笑った。

お互いに社会適応しているな、と思った。

 

 

 

仲間が野田先生の補正項の記事について書いていたので、

久しぶりに補正項を拝読した。
http://jalsha.cside8.com/diary/2014/12/09.html

「ペテロの否認」についてだ。

イエス・キリストを野田先生のメタファーに使うのは、

良い顔をしない方々もおられるかもしれないけれど、

エスとその弟子たち、野田先生とその弟子たち、という関係性について、

私は比喩的にとらえてしまう。

恐ろしく厳しい師である。

そして、師は一般常識の世界では理解できない世界で生きておられる。

この師について行くということは、様々なものをなげうつことを選ぶ、ということだ。

世間から守ってもらえる見込みもない。

それどころか、世間から蔑まれ、後ろ指を差され、理解されることもない。

そういう中で、弟子でいること、弟子であると言うことは

勇気のいることだと思う。

 

 

全人間的な教育というものが崩壊し、

教育が要素還元主義的科学としての知識の伝達に置き換わって以降、

師弟間での技、芸、の伝承というものが未だ生き残っているところはほんのわずかだと思う。

 

師匠と弟子は、もはや大学の中でも絶滅しかかっている。

落語家の世界でも、内弟子はもうほぼ絶滅しているようだ。

師匠はみんな先生になってしまった。

弟子たちはみんな生徒になってしまった。

芸や学問に人生を賭けることなどなくなってしまった。

そんな世間の中で、

全人間的に、人間知のアドラー心理学を伝承するという師弟関係を

前提として理解してもらうことは、もう不可能なのかもしれない。

 

 

弟子なんてろくなもんじゃないと仰った先生がおられる。

その先生は学問の世界を師弟関係の中で過ごされた最後の世代だったと思う。

本当にそうだと、今私は思う。

私も、そのろくでもない弟子だ。

弟子は師の胸の内などつゆ知らず、師ではなくて愚かな自分を信じる。

弟子は師の言葉を、曲解する。

弟子は師を裏切る。裏切り続ける。

古今東西、そういうものだ。

けれども、師匠と弟子の関係には、

先生と生徒には、決して成し得ないことがあるだろう。

 

私は愚かな弟子であっても、不出来な弟子であっても、

私は弟子であることを否認はしない。

師を仰ぐことが、宗教みたいだとか贔屓だとか様々な不評は聞く。

でも仕方がない。

私はそんな世間に生まれてきてしまった。

 

私には師がいる。

そのことは、私が歴史の中に組み込まれているということを意味する。

私一人が生きていることに意味などない。

私がたとえば、このように師との関係に組み込まれて生きていて、

はじめて意味が生まれる。

そのように人生を意味づけたアドラーという人が、我々の創始の師である。