先日は子どもたちを連れて、百貨店で開かれた落語会に行った。
夏休みの宿題の追い込み中の次男に「落語会があるんだけど、行く?」と尋ねると、
「俺本気出すから、絶対お母さん家にいる間に宿題終わらせるから、行く!」と鼻息荒く答えた。
長男も、行きたい!と前のめりで答えた。
YouTubeで落語はよく観るけれど、ほぼ桂枝雀オンリーな彼らなので、江戸落語は楽しめるかな?と少し気になったけれど、
落語を生で見れるんだ!と興奮していたので、きっと楽しめるだろうと思った。
会場は思いの外お客さんが多くて、緊張気味の彼ら。一番後ろに3人並んで座った。
長男の方は私よりも理解が早く、かなり早い段階で笑っていることもあった。
次男は時々私の膝に乗ったりして甘えていたのに、
休憩の後、最前列の空いている1席に「誰かここに座ってもらえませんか」と噺家さんに呼び掛けられると、
私を振り返り、「お母さん、ぼく前に行ってきていい?」と言った。
いいよ、と言うと、私の膝から滑り降り、すたすたと最前列へ歩いて行って特等席に腰掛けた。
噺家さんたちが「君のためだけに話すわ!」と喜んでくださって、次男は嬉しそうな顔をしていた。
それから1時間近く、次男はひとりの席で落語を楽しんでいた。
あんなに甘えん坊なのに、この人はちゃんと自立しているなあと思った。
色んなこと、我慢させてしまっていると思うけど、次男も大丈夫だって思えた。
しゅんすけすごいね、と長男が微笑ましく見守っていた。
既に宿題を全て終わらせていた長男は、次男が宿題をするのを同じような笑顔で微笑ましく見守っていた。
自由研究のまとめ方にアドバイスしたり、模造紙に上書きした後の消しゴムをかけてあげたり、ワークの丸つけをしてあげたり。
いつの間にこんなに上手に、次男が学べるようにと手伝えるようになったんだろう。
私も見習いたいと思った。
長男の好きな落語は、七度狐と愛宕山。
次男の好きな落語は、七度狐と代書屋。
どれも枝雀のもの。
私の好きな落語は色々あるけど、上方落語では天神山、稲荷俥。江戸落語では立川談志の木乃伊とり、野晒し。
そんなことを噺家さんに話した。
「狐が好きなんですね。」と微笑まれた。
そうだ。今まで気づかなかったけれど、私は狐が好きなのかもしれない。
この小さな寄席は、小さなカフェで開かれる。
隣はお稲荷さんの祀られている神社だ。
カフェの店主さんがここに来られてから、荒れていた神社をきれいに掃除しておられる。
私はお稲荷さんにご縁を結んでいただいたのだろう。
そうだ。
昔からなんとなく世間に混じれないのは、私が狐だからなのかもしれない。
人を化かして生きている。
自分も化かして生きている。
自分が狐であることも長らく忘れていた。
数年前、優子先生の心理療法のワークで、
危機的モードと成長モードの自分はどんな動物か、というのがあった。
そのとき、危機的モードの私は、アカギツネだと答えたことを思い出した。
「狸じゃないんですね」、と優子先生に差異を尋ねられて、
「ええ、狸ではないです。」と私は確信を持って答えた。
「このアカギツネは、多分イギリスの田園の側に棲んでいて、夜に牧場に忍び込んでニワトリやガチョウを獲ったりするんです。ずる賢くて、人間を出しぬこうとするから、人間は怒ってこのアカギツネを捕まえたり殺したりしようとするんです。日本の狐じゃないんです。」と答えた。
私はひとりきりで、悪知恵を働かせて、私を憎む誰かと戦わなければいけないっていうのが、私の危機的モードの状態だった。
今の私も危機的モードなのだろうか。
でも、あの時のように、戦おうとは思えなくなっている。
だから私は変化して、私なりにちょっと成長して、日本の狐になったんだろう。
人里の近くに棲んでいる狐。時々悪戯心で人間を化かしたりする。
お稲荷さんのお供物を失敬したり、魚を盗んだり、人に化けて木の葉のお金で無銭飲食したりするぐらいで、大切な家畜を襲ったりはしない。
そして時々、人間に恩返しをしたりする。
ただ、やっぱり、危機的モードの私は孤独なんだなと思う。
野田先生は狸だった。
私の子どもたちを、可愛い子狸として描いてくださったこともあった。
私の子狐たちは、ちゃんと立派に育っています。
とても嬉しいことばかりだったのに、すごく寂しいのは、
野田先生と落語について話したことが思い出されるからだろうか。
経済のことは「花見酒」と「持参金」だけで十分仕組みが分かりますよ、と仰った。
そんな話ができるのは野田先生とだけだった。
「落語って、全て、人間の哀しさが底にあると思うんです。」と私は言った。
「談志の言う、人間の業の肯定ですね。」と噺家さんは言われた。
「そう、その人間の哀しさの、可笑しさを描いているのが落語だと思うんです。」
例えばチェーホフとかドストエフスキーなら、人間のどうしようもできないどん底を描いて、描いて描いて、それでも生きていかなければならないのだ、と言う。
落語はそこまで突き詰めない。
同じように人間のどうしようもなさを描いて、でも、ふっとどこかに笑いを残して、
そんなに捨てたもんでもないよ、と逃げ道を残してくれる。
どこまでもメタなんだと思う。
そこに救われるんだと思う。
「かのように」と親和性が高いのだろう。
師匠の型を守りたいと思う。
型が本質なのではないけれど、
型がなければ本質も崩れるように思う。
「型があるから型破りになれる。型がなければ、型なしだ。と談志が言っていました。」
談志の孫弟子の彼と話ができたことは、本当に有り難く思う。
出会って間もないのに、とても懐かしい気がするのは、師匠のおかげだと思う。
師弟関係という現代日本において稀有な関係を肌でわかっている者同士。
師匠の型を守り、地道な活動を続けておられる彼を見て、
落ち込むばかりだ。
今の私を見たら、師匠はどう仰るだろうか。