砂上の楼閣

今日はパセージOBメンバーさんたちとの抄読会でした。

 

進行役を回り持ちでやってみているのですが、とてもいいなあと思っています。

進行役をしていただくと、お一人お一人のストレンクスが発揮されますね。

そして、他のメンバーさんたちが、よりメンバーシップを発揮しておられるようにも感じます。

話がふくらんで、ご家族のお話や中期回想(中学生〜高校生ぐらいのエピソード)をお話していただく場面もあって、

本当に心を開き、信頼し合える場なんだと、嬉しく思っていました。

 

私がいちメンバーになれるというのが、心地よく感じます。

今日はちょっと、私がしゃべり過ぎだったと思いますが…

いつもそんなこと言ってる気もしますが、今日の私はメンバーだったから、いいのです。

 

最近私がわからないなと思いながら、迷いながら、

ずっとぶらさげている話を聞いていただけました。

ありがたかったです。

一人で悲観的な世界に落ちていきそうになっていたところを、

耳を傾けていただけて、感じたことを素直に言葉にしてくださって、

これは意味のある迷いだと思えました。

そして、私がどうすべきなのかも、まだ霞みがかっているのですが、おぼろげに見えてきました。

 

 

 

それはどういうことかというと、

私は倫理観も道徳も崩壊してしまった世界に生まれてきたということです。

明治時代や昭和初期の日本人の美徳は、今やほとんど見当たらないのではないかと思うのです。

なぜそうなってしまったかというと、それはやはり戦争に負けたからです。

アメリカが、日本人の倫理観と美徳を崩壊させなければ自分たちが危険だと思い、

たいへん巧妙に、見事に、日本人の思想改造を行いました。

War Gilt Information Programの一環で、様々なキャンペーンが行われました。

「軍部の暴走」という一面的な見方によって戦争責任が語られ、

大衆は戦争の責任を負わないまま、日本人の精神的な連続性が断たれました。

そしてその結果、生活が便利になって、様々な縛りが解かれる一方で

モラルや常識が崩れていきました。

 

暮らし方ひとつとっても、だらしがなくなったと思います。

けっこうな怠け者でずぼらな私は、かなり恥ずかしい暮らし方をしているように思います。

先日、少しでも私なりにきちんとした暮らしをしようと思い立ち、

それで立てた目標が、「食事の後はすぐにお皿を洗う」ってことですからね、

まったく私は人さまのことをどうこう言えるレベルではありません。

 

何が言いたいかというと、

私たちの共通感覚は、もしかすると自己執着に偏っているかもしれないということです。

自分さえよければいい。人に迷惑さえかけなければ何でもいい。

そういう考え方が、もしも常識になってしまっているのであれば、

「共通感覚に照らしてみて、共同体感覚かどうかを考える」という

そういう考え方は、あまり意味がないと思うのです。

共同体感覚かどうかのチェック機能を果たせないと思うのです。

社会通念、社会一般の常識が、世のため人のためのものでないとすれば。

 

自分では自分の色眼鏡に気づけないまま、

誰もが色眼鏡をかけているのだから、

自分では問題だと思っていることが相手にとっては問題ではなく、

自分では問題がないと思っていることが相手にとっては問題であることもあって、

そのことに自分では気づくことができないのです。

だから今の状態が本当に良い状態かどうかは、わからない。

 

ではどうしたら良いのか、考え始めると袋小路に入ってしまいそうなのだけど、

確かなのは、私が相手の問題を解決する、という考えがそもそも間違いであるということです。

相手が相手の問題を解決できるように援助する、というのが進むべき方向性です。

そのためには、相手の話を聞くこと。

相手は必ず自分の力で問題を解決できる、と信じること。

私と同じだけ相手は愚かであり、私と同じだけ相手は賢いのだと

心から思うことができれば、

私は相手を支配することができないことをわかると思います。

 

目指すべきは、共同体感覚でなければならないと思います。

人々のために自分には何ができるのかを考え、

この問題はみんなの問題であって、みんなにとってどういう意味を持つのか、

みんなでその問題について話し合うことだけが

共同体感覚に向かう方法なんじゃないかと、今の私は考えます。

 

人心の荒廃した世界で、共通感覚を当てにすることはできないと思います。

私たちが共同体感覚を目指す限り、共通感覚に相反することがあると思います。

それは仕方がありません。

モラルある、道徳的な世界を作っていかなければ、

常識の延長線上に共同体感覚は置けないと思います。

そうでないと、共同体感覚がまるで砂上の楼閣になります。