手離せない私を見つめる

今日は野田俊作ライブラリーのオンライン勉強会でした。

 

「勇気づけ」というのは、encourage to doで、そのdoにあたることは

自分のすべきことをする、

つまり自分の課題(タスク)に取り組む、

ということだと野田先生はおっしゃいます。

アドラーの著作にもそう書いてあります。

自分のすべきことをするために勇気づける、

自分の課題に取り組むために勇気づける、

ということが、「勇気づけ」の意味です。

 

アドラー心理学で考えると、世の中はとてもシンプルです。

自分のすべきことをしないでいようとしたり、

自分の課題から逃げようとしたり、

そういう状態は勇気がくじけている状態です。

 

そこで、私のすべきことって何?私の課題、タスクって何?ということを考えなくちゃいけなくなります。

私は絶対的全体論者なので、私のタスクは、私に降りかかってくることすべてととらえます。

子どもがバスの中にお弁当箱を忘れてしまったと言ってきたこと、

大切な人が重い病気にかかってしまったと知ったこと、

友人が職場の人間関係で悩んでいると伝えてくれたこと、

夫と深夜と朝の少しの時間だけバタバタと顔を合わせること、

ブログを毎日書くと宣言したこと、

チベットのお坊さまたちの遭遇していることを知ってしまったこと、

毎食毎食の食事作りをどうするかということ、

そういうことすべてを、日常の些細なことから人生の岐路の大きなことまで、

私の課題だととらえます。

 

そして同時に、それは他の方たちとの共同の課題でもあるととらえます。

置き忘れたお弁当箱をどうするかは子どもの課題であって、

その子どもとどうつき合い、どう援助するかは、私の課題である。

病とどう向き合い、どうつき合って生きていかれるかはその方の課題であって、

病を得て生きるその方とどうおつき合いして生きていくかは、私の課題である。

すべては私の課題で、すべてはみんなの課題だと思います。

野田先生が繰り返しおっしゃっていることを、

私は今自分のものにしていっている最中です。

 

そしてその課題に対して、私のできることを、勇気をもって取り組もうと思います。

そのときにもうひとつ必要になる勇気は、

他の人の課題を他の人にお任せするという勇気です。

私がもっとも良く私を使っていただけるように、世の中のお役に立てるように、

他の人が世の中にお役に立つことを援助できるように、

私が私の課題に取り組むということ。

これが、課題の分離と共同の課題という意味だと、今のところ理解しています。

なぜなら、世の中のお役に立てたとき、はじめて人は幸福でいられるから、

人の幸福になる機会を奪ってしまってはよくないからです。

そうではなくて、私には私の課題がある。

あなたにはあなたの課題がある。

その大きなタスクにどうやって立ち向かっていくか、

あるときは協力して、あるときはそれぞれで、取り組むのです。

 

そのためには、話し合いが必要です。いわばプロジェクトの作戦会議です。

私たちは仲間だから。

一人で立ち向かうことができると信じている。

でも、必要があればいつだって手を貸そうと待っている。

手を貸すときは、あなたの必要とする助けを、私にできる限りしたいと思う。

それが仲間だと、私は今思えています。

 

どうしようもない大きなタスクが誰かに降りかかるとき、

私は無力だと感じます。

私に援助する力はないと感じます。

だけど、その苦しみを一緒に味わうことだけはできます。

私はその運命を受け入れる勇気を持ちたいと思います。

私に何もできないということも、

その方が大きなタスクにどのように向き合っていくかということも。

 

具体的に私に何かできることがあるとき、

私は不安にならずにいれますね。

何かすることがあれば、とても安心します。

ということは、

本当は私が取り組むべき課題でなくて、相手が自分で向き合うべき課題を、

私が自分の不安を解消するために、自己執着から、手を出してしまうことが大いにあり得るということです。

見守るという勇気が、要ります。それもひとつの援助の形です。

 

 

私にできないことがあるということ。

私の限界を知っておくこと。

私の分際を知っておくこと。

それも、大切なことだと思います。

私のすべきことをする、私の課題に取り組むということは、

能動的なものばかりではないのだろうと思います。

相手の話を聴くこと、ただ聴くこと。

相手の苦しみを共に感じること。

私にはできないことがあるとわかること。

どうにもならない運命があるとわかること。

それでも、その運命の中で、私にできることをしようとすること。

 

 

気休めを言いたくなるのは、相手のためではないのでしょう。

自分の不安を解消するためなのでしょう。

「これはあなたにとってどういうことなんだろう、あなたのために私には何ができるんだろう」と考えることを共同体感覚だというけれど、

わかったように私は言うけれど、

いつも、私の不安をどうにかするために、とか、私が役立たずでいないでいられるようにとか、

そういう自己執着が顔を出そうとします。

 

本当に人間は、他の人のために生きていくことはできるのでしょうか。

おそらく、不完全な存在である人間には、できないのだと思います。

到達できない目標なのだと思います。

だけど、その目標に向かって、共同体感覚という到達できない理想に向かって、

私たちは向かって行っているんだと思います。

 

お掃除のように、瞬間的に綺麗になった、と到達できるように、

瞬間的には共同体感覚は到達できることもあるんじゃないか、という先輩の意見をお聞きして、

確かにそうかもなと思ったこともありました。

でもやっぱり私は、共同体感覚は永遠に達成できない理想だと思います。

苦しんでいるあなたをどうにかしてあげたいと思うのは、

やはりそれは私の自己執着だと思うから。

だけど、それでいいと思うのです。

あなたを助けてあげたいと望むのは、私の愛だから。

これは自己執着だとわかって、手離せない自分を見つめていたいと思います。

だけど、どうにもできない自分を憐れむのはやめようと思います。

だって、それは誰のためにもならないことだから。ただ自分のためだけだから。