不寛容な私のままで役に立つ

今日は野田俊作ライブラリのオンライン勉強会でした。

 

最近始まったオンライン勉強会ですが、

だんだんといいグループに育ってきたなあと思います。

メンバーのみなさんが、わからないこと、疑問に思うこと、実践で難しいことを

率直に話し合えることがとても素敵だと思います。

 

頭で理解することを中心にして、言葉で学ぼうとすると、

(私も多分そうなんですが)わかったふりに陥ることが多いと思います。

でもアドラー心理学は実践が大切です。

実践したことの成功談と失敗談を元にして、

これってどういうことだったんだろう、

野田先生の言葉とのつながりはどうなるんだろう

という風に、

暮らしの中でのご自分の実践を中心に学ぼうとするメンバーさんたちが、

とてもまぶしいです。

 

わからないことがわかっているって、素晴らしいことだと思います。

私はどうしても言葉でわかったつもりになりがちなので、

もうそれは私の性質として若干あきらめています。

その代わり、みんなの前で自分のエピソードを披露したり、

事例検討会や講座で自分のカウンセリングを披露したりすることで、

全然未熟で下手くそな私をさらけ出す方針を選んでいます。

そうやって、仲間からご意見をいただこうと、

厳しいご意見も、にわかには受け入れがたいご意見も、

たとえ的外れなご意見であっても、

ひとつの貴重なご意見として真摯に受け止めようと、努めることにしました。

「相手がバカなんじゃなくて私がバカなんだ」

ということが、先日の練成講座でカウンセリングを受けて学んだことです。

だから、私はまず、相手の意見を聴いてみようと、行動を変えようとしています。

 

 

数年前の講座中にライフスタイル分析を受けて、

私の対処行動は「軽蔑する」が多いことに気づきました。

相手を軽蔑して、もうこれ以上話しても無駄だと思って、黙るのです。

おしゃべりな私が黙るというのは、相当のことでした。

そういうときは、初めはわかり合おうとして相手にたくさん話しかけて、

話しかけて話しかけて、もうあかん、と現界が来ていました。

そして次からも、もう私はその相手と話そうとしないのです。

 

今はどうかというと、

黙るという行動を、相手の話を聴くために使うこともできるようになったと思います。

そういう風にして、私ばかりがしゃべっているのではなくて、

相手の話をちゃんと聴こうとしていると、

もうあかん、これ以上話しても無駄だ、って相手を軽蔑することは、

かなり減ったように思います。

相手には相手の考えが、理屈が、良い意図があるのだとわかりました。

それらは私とはまったく違うのだけど、ただ違うだけなんだとわかったので、

他人に対して陰性感情を抱くことがかなり減りました。

 

ただし、同じ価値観を共有したいと思っている相手、

主に夫に対しては、そう割り切ることができないので、未だに陰性感情噴出します。

今日もやってしまいました。

次にクライアント役するときの事例で出します…これも貢献になるのです…

 

 

 

それから、こんなに陰性感情を抱いているのは、

ああ私はこの人を軽蔑しているんだって、

自分でわかるようになりました。

 

私はたいへん批判的で、許容範囲の狭い、不寛容な人間です。

寛容で、懐の深い人たちのことを、本当に素敵だなと思います。

でもね、もうこれは仕方がないのです。

私はどこまでも、嫌われ者の過激派として、尖り続けていこうと思います。

パセージリーダーのときだけはモードチェンジしますけどね。

批判的で不寛容であることが、

アドラー心理学を守り継承していくためには必要な場面があると、

私は思うからです。

この不寛容な私にも、不寛容だからこそ回ってくるお役目があるのだと思います。

 

 

早期回想を眺めて、感じるのは、

私は不利な戦いにも挑むんだなということです。

でも、巨大なマンションや地震は、どうしようもできない、と思い込んでいます。

もうそれはあきらめて、自分の範囲を守らなければ、と思い込んでいます。

私をどのように使ってくださってもけっこうです。

でも私の歩む道を同じく歩もうとしてくださるのなら、

きっと険しい道だと思います。

私は戦う人間です。