今日はパセージOBメンバーでの第1回抄読会でした。
勉強しているのは、フランシス・ウォルトン先生の『子どもの協力をかちとる』です。
アドラー心理学の育児を家庭や学校でどうやって実践するかという内容の対訳本です。
(この本は一般書店で販売されていなくて、日本アドラー心理学会のHPからしか注文できません。)
みんなで読み合わせながら、
感想を話し合ったり、
パセージで学んだことと照らし合わせてみたり、
疑問を出してもらって、意見を出し合ったり、
事例をもとに考えてみたり、
やっぱり対面のリアルのグループっていいなあ!と感じていました。
オンラインの勉強会もとても良いんですけど、
一体感が、違いますね。
今回は、うちの次男も含めた夏休み中の幼稚園児さんたち4人が一緒で、
ふた間続きの隣の和室で仲良く遊んでいてくれました。
いつもパセージの事例に出てくるお馴染みの子どもさんたちの様子が見れて、
とっても成長していることを感じられました。
協力してくれてとても助かりました。
私たちは一人で子育てしているんじゃないよって、私は思えるようになりました。
昔はもっと地域の中に各家庭が組み込まれて生活していて、
隣近所で子どもを一緒に育てる環境だったのだろうと思います。
今もそういう環境で子育てされている人もいるかもしれませんが、
私はパセージのおかげで、自分の子育てについてあけっぴろげに話をし、相談できる場を得ました。
都会育ちの私の家は、各家庭が地域に組み込まれている、
各家庭が役割を担っている、子どもたちも地域で役割を担っている、
というような環境ではなかったように思います。
ただ、小学校低学年までは、近い年齢の子たちがたくさんいるマンションに住んでいたので、
近所の子たちとマンションの公園でよく遊んでいました。
お互いの家にもよく行き来していました。
マンションの管理人さんとか近所のおじさんとかに遊んでもらったり、
時にはいたずらしてみんなで叱られたり、していました。
年上の子たちから色んな遊びを教えてもらったりもしたし、
喧嘩もしたし、意地悪もされたし、
私はあのときに社交性を、社会性を、身につけていったのかもしれません。
駐輪場の裏とか、植木の陰とか、コンクリートの段とか、
そういう所が私たちの秘密基地で、毎日が冒険だったなあと思い出します。
私は秘密基地好きの子どもだったので、母を心配させたことも度々ありました。
違うマンションのお友達のお家に遊びに行っても、
私たちはいつも秘密基地を探して遊んでいたので、
夕方薄暗くなっても、常識的に考えられる場所に私たちがいなくて、
ようやく私たちを見つけた母にすごく怒られたこともありました。
それはそれは心配だっただろうと思います。今はわかります。
暗くなってきたらわかりやすい場所にいるようにしようって思ったかもしれませんけど、
でも私はあんまり気にせず、
それからも変わらず、いい秘密基地を探している、そんな子どもでした。
幼稚園にもいいところがいっぱいあったんですよ。
園舎の裏とか、教会の裏庭の石垣とか、池の向こう側のちょっとした林とか。
基本的に、私の思い出すお気に入りの場所は、
子どもが遊ぶための場所ではありませんでした。
人気がなくて静かで、草木が勝手に繁っていて、管理されていないところでした。
そういう私のお気に入りの場所は、もう存在しません。
私の思い出の中にあるだけです。
阪神大震災のときに、全部なくなってしまったからです。
あの古くて静謐な幼稚園の教会も、裏庭も、住んでいたマンションも。
こう書くと、とてもセンチメンタルな感じですが、
今の私はそのことを悲壮感を持って思い出したりはしません。
私は大切なものを失った体験があることを、ありがたいことだと思います。
世は無常です。
いつかすべてを失うことは同じなのだから、
それを知っていることは、もしかすると私の強さなのかもしれないと思います。
故郷がなくなっても、思い出すことはできる。
私の中にはずっとあるのです。
阪神大震災のとき、私は小学3年生でした。
私の4人家族は、近くに住んでいた母方の親戚の家に数日避難させてもらって、
それから遠方の父方の親戚の家に数週間滞在させてもらいました。
周囲のあたたかい大人たちに恵まれたおかげで、
私は何不自由なく、そして、私は守られていると感じて過ごしていました。
父方の親戚の家は、巨大な巨大なマンションでした。
それまで私が住んでいたマンションは、確か7階建てで、
1階は店舗と管理人さんの家で、他の各階の家は10軒ぐらいだったと思います。
親戚のマンションは、20階以上はあったと思います。
そのマンションにも公園があって、私と弟は、所在無くその公園にいました。
だだっ広い砂地で、砂場やブランコや遊具が寂しげにぽつんぽつんとありました。
子どもたちは、みんな学校に行っている時間です。
私と弟の他には、誰一人いません。
すべり台のついた遊具に上ってマンションの方を向くと、
巨大な壁のように見えました。
灰色の空を半分隠してしまっていました。
私はマンションに背を向けて、遊具の上に座って、
これからどうやって生きていけばいいんだろうって思いました。
味気がない世界がただ虚しく広がっているだけのようで、
私はあまりに小さいと感じました。
遊具は私たちだけのものなのに遊ぶ気になれず、
私は弟の手を引いて、部屋へ帰りました。
部屋の中は私の居場所でした。
それ以降、その公園に出ることはほとんどなかったと思います。
その後、父の勤めていた会社が借り上げてくれた小さな社宅へ移り、
4人家族の生活が再び始まりました。
それから数ヶ月して、故郷へ戻り、
小さなマンションで小学生が終わる頃まで暮らしました。
どちらの家の近くにも、緑がいっぱいの公園がありました。
社宅の中の公園は、雑草が一面に生えていて、端の方は雑木林になっていました。
私たちと同じ境遇の3家族が同じ時期に引っ越してきました。
私たち6人は毎日のように一緒に遊んでいました。
たんぽぽやほとけのざを摘んだり、
鉄棒に腰掛けて、林を眺めながらおしゃべりしたり、遊んだりしていました。
あの社宅は私たちが故郷へ戻ってから数年後、取り壊されたと聞いたので
もうあの公園もないでしょう。
故郷へ戻ったときに住んでいた家の近くの公園は、今もあります。
今もあそこで盆踊りをしているのでしょうか。
たくさんの大きな木が、今も深い緑だったらいいなと思います。
私の好みは変わらないですね。
思い出す好きな場所は、いつも緑でした。