ひとりじゃないからタフでいられる

子どもたちが通っていた幼稚園の近くに住んでいる。

子どもたちとの思い出が近くにある。

そして彼らは、歩いて来れる距離に住んでいる。いつでも、会える。

 

神戸の中だけで生きている人間は、北に山があると世界を位置付けて暮らしているのだが、

このマンションの北側にも、この町のシンボリックな山がある。

北側の部屋の窓からの眺めで、ここに住もうと決めた。

 

南側、ベランダの向かいには大きな高級マンションが建っている。

そのマンションと私のマンションとの間には、大きな蓮の葉が浮かぶ池と、その周りに雑木が生い茂っている。

こんな季節なのにカエルの声がよく聞こえる。

私が神戸で家族と住んでいたマンションの南側、ベランダの向かいにも高級マンションがあって、そのマンションとの間に雑木の生茂る公園があった。

見下ろすと、緑が揺れていた。

同じ位置に同じような環境が配置されている。

 

私の思い出たちが集結し、私は世界の中心に戻ってきた気分でいる。

ひとりでいても、何も寂しいと思えない。

不思議だ。

 

私はやっとひとり立ちできたんだ。

たくさんの方々の信じられないほどのあたたかい支えのおかげで、私はずっと庇護されてきたけれど

今ようやくひとり立ちできた。自由になれた。

そのひとり立ちの術が、手助けの必要な人たちへの援助だったというのは

正しく因果だなと思う。

 

 

 

☆☆☆☆☆

 

毎日新しいことが起きる。大変な事態が起こる。

昼のミーティングでも、職員どうし顔を合わすたびに

これが毎日続いたら日常業務回すのもいっぱいいっぱいで、もうどうしよう!?笑うしかないしできることするしかないし、みんなで乗り越えて行こう!と励まし合っている。

でもちょうどうまい具合に、ひとつの大きな事態が収束を迎えるタイミングで別の波がやってくる。

大きな波が2つ3つ重なっても、不思議なことに4つ目の波がやってくる頃には1つ目の波は引いている。

 

そんな中、今日は延び延びになっていた全員参加の所内の秋祭りだった。

コロナで数年開けなかった大きな行事だ。

職員手作りの唐揚げ、チャーハン、おでん、焼き芋、フランクフルトなどの食べ物、

輪投げやくじ引きやヨーヨー釣りなど遊びのコーナー、最後はビンゴ。

職員総出で、利用者さんたち子どもたちと楽しんだ。

 

私は行事担当ではなかったのでほとんど準備に関わることがなかったのだけど、

これだけ日常業務とイレギュラー対応で大変な中、こんな大きな行事を催すことができたなんて、未だに信じられない気持ちでいる。

本当に働き者で、何でもできる人たちだなあと思う。

昨晩からの夜勤明けの人も手伝いに来てくれていた。

今日の夜勤の人も手伝いに来てくれていた。

おかげで、今日は職員全員が初めて揃った。

ひとりひとりがそれぞれの持ち場で必要な役目を果たしていた。

残った食べ物や景品は職員全員できれいに分け合った。夜ご飯に持って帰ってね!って。

 

私は今日は4歳の男の子のお母さん代わりを務めていたから、多分誰よりも楽だったと思う。

一緒にご飯を食べて、遊びのコーナーを回って、ゲットしたおもちゃで遊んで、ちょっと飽きたら、他の子たちと一緒に庭で滑り台や追いかけっこをしたり。

ビンゴの時はずっと私の膝の上で鼻歌歌っていたりした。

仕事から帰ってきたお母さんに、秋祭り楽しかった!ってビンゴの景品を見せていた。

お役目、果たすことができたかな。

 

働き者のお姉さん職員さんと一緒に、私は午後22時まで勤務だった。

今日は私たちは行事の時間分、3時間の超勤だ。

21時過ぎに夜勤のお姉さん職員さんが再びやって来て、3人で利用者さんたちについて情報交換したり、対応を相談したりした。

みんな働き者だ。…私は気持ち良くよく働く人がほんと好きだなあと思う。

 

この施設で働く人たちにメンタルに不調をきたす人が多いのが、全国的に課題とされているらしい。

移動願いを出して出て行かれる人も多いらしい。

私はまだ責任を負う部分が微々たるものだからか、まだまだ余裕があるなと思う。

自分はタフだな、とは思う。

でも、こんなはずじゃなかったのに、楽しんでしまっている。

それは多分、周りの職員さんたちが楽しんで働いているからだと思う。

人に恵まれていると、本当に思う。

「幸せな人に囲まれていて、なお不幸でいることはできないのです。」

そして私の果たせる役目が見つかったことが、大きいと思う。

 

 

 

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仕事を始めて半年になる。

任せてもらえることが増えて来た。

中学生に宿題を見て欲しいと言われて、一緒に勉強した日があった。

別の職員さんがその後でその子の勉強を見たら、「次はまたMさんに教えてもらいたい、わかりやすかったから」って言っていましたよって知らせてもらった。

それで、今日一緒に宿題したときはこの前よりもリラックスして、率直にお話ししてくれていたんだって気づいた。

その子には大きな病気があって身体は不自由なのだけど、

勉強している時はそんなことは何も関係なくて、私たちはその子の不自由さを完全に忘れてしまっている。

私たちは職員とか障害児とか男とか女とか大人とか子どもとか何もかも関係なくて、

ただこの数字に向き合って化学式に向き合って、論理の力を使って、世界の仕組みを学んでいるふたりの人間であることを思い出す。

 

勉強することは、自由を得ることだと思う。

勉強した結果、何らかのライセンスを得るという実用的なこともあるけれど、

それとは別に、純粋に、学ぶことによって世界が広がって、ものの見方が広がるということだ。

それは確実に人生を豊かにする。人間を自由にする。

思いのままにならない身体であっても、彼は自由を得ることができる。

私は彼が目を輝かせて「あ、そうか!」と言って一次関数の式を求めることができた時、

この瞬間のために、私は学生時代に塾でアルバイトして子どもたちに勉強を教えるという経験を積んできたんだな、と思った。

彼は自分の人生を切り拓いていく力を、今、伸ばしていっているところなんだ。

その成長の瞬間瞬間に立ち会えることを幸せに思う。

 

 

 

一緒に勉強していると、私には子どもたちのの素敵なところがたくさんたくさん見えてくる。

私は子どもたちと勉強するのが好きなんだなと思う。

そして、子どもたちは勉強ができるということをこんなにも喜ぶんだと知った。

勉強は、自分の不出来さを確認するような事態になりやすい。

だから私は絶対にできていないところには注目関心を与えずに、必ず良いところや上達したところに注目関心を与え、すごいね、できたね、賢いねえ、と感動し、喜ぶ。

だから私と勉強する子はみんな、自分は勉強ができる子で、賢い子であるかのように思い込む。

そうであるかのように思い込んだら、そうであるかのように勉強に取り組む。

不思議と字が大きく堂々としてくる。目がキラキラしてくる。

こんな簡単なことなのに、どれだけ我々大人は、子どもたちに勉強をしてもらおうという良い意図でもって、子どもたちが勉強する勇気をくじいてきたのだろうかと、悲しく思う。

 

そんなわけで、私は勉強を通しても、結構子どもたちと良い関係を作っている。

宿題よく頑張っていますよ、今日はすらすら解けましたよ、など、お母さんにも報告するので、お母さんとも子どもたちの宿題を通して良い関係を作っていっている。

 

そんなわけで、勉強というのは私と関わりを持つ絶好の口実になっている。

昨日は珍しく3年生のMくんが、私が小さい子の預かりをしている部屋で「俺宿題するで!」と、算数のプリントを広げ始めた。

頭の回転は早いけれど、気が散漫だから、勉強ができないと思われがちのMくんだ。

でも周りの様子を的確に把握する賢いMくんが、勉強ができないわけがないと私は思う。

工夫をすることで、彼もきっと勉強ができるようになるだろう。

彼がとても優しくていい子であるように、彼はとても賢くて努力家でもある。

一緒に算数の文章題を読んで、どうしたらいいかな?と尋ねていると、他に気が散ることもなく、集中して解くことができた。

やっぱり賢い子だなと思った。

でも、漢字を読むのは苦手みたいだ。それで問題の意味を捉え違えてしまう事による間違いが起こる。

漢字は、どうやって学んでいけばいいのかな。

まずは得意なところを伸ばしていく方がいいのかな。

また今度、Mくんと相談してみよう。

 

 

 

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本当は、子どもたちの勉強だけ見ていられたら、一番私は楽しいのだけれどね。

しかしそういうわけにはいかないので、遊びもするしお風呂にも入れるし寝かしつけもするし、調理支援も清掃支援も引っ越し手伝いも病院付き添いも学校送迎も買い物支援も買い物代行も、何でもさせていただきます。

…うん、私も能力伸びてる。

そして私にはたくさんの仲間がいる。私を好いてくれる人たちがたくさんいる。

その人々の間に、私は所属している。私の能力を貢献的に使って。

 

 

 

私の能力のひとつには、人を好きになるというのもあるかもしれないなと思う。

私は人を好きになりたい。

そして私は人に好かれたいのだ。それはそれは強い欲望だ。

 

 

先日友だちと話したり母と話していて、私の私的感覚を意識下に引っ張り出した。

おそらく、「誠実/偽善」に近いと思う。

嘘は方便と思っているし、嘘を全て悪いとは思えないのだけど、私はある種の嘘や偽りが許せないのだ。

それは、「他人を瞬間的に喜ばすために思ってもみないことを言う」「自分が良い人でいたいがために他人に良いこと、期待させることを言う」「自分を好きにさせるために甘いことを言う」という類の嘘や偽りだ。

それを差し当たり偽善と呼んでみた。

もっとぴったりの言葉が見つかった時、私はまた少し成長できるだろう。