牢獄の中の自由

ナザレンコ・アンドリーさんが、ウクライナへの義勇兵に志願されたという話が、今日の月刊WiLL増刊号の動画にアップされていた。

【ナザレンコ・アンドリー】ウクライナ大使館で「義勇兵」志願した結果【WiLL増刊号】 - YouTube

 

自衛官など、50人ほどの日本人が義勇兵として志願していたということも話されている。

自分のこととして受け止めて行動する方々がいるのだと知った。

ただ、現在の日本の憲法では、義勇兵といっても戦闘行為はできないらしく、後方支援ということになるそうだ。

ちなみに今は義勇兵を募ってはいないそうだ。

(けれど、私はどれも確かなソースに当たっていないまま、この動画から得た情報を書いています。)

 

ナザレンコさんは、政治評論家や外交評論家であるから、日本に留まって別の形でウクライナのために活動される方が良い、情報戦というのも大切だと大使館から言われ、

ウクライナに向かうことはできなかったそうだ。

何か自分にできることをしたいと思うが、私に何ができるかは、私が決められることではないのだと思う、と仰っていたことがとても印象的だった。

これからも大使館と連絡を取って、自分にできることをしていきたいと仰っていた。

したいと思う行動も、すべきだと思う行動も、叶わないことがある。

それを受け入れた上で、自分に何ができるのかと考えて行動する姿を見た。

 

このようなナザレンコさんに対して、あの人は嘘の情報を流しているという誹謗中傷も多くある。

組織的に、まことしやかに、常識的な顔をして。

ナザレンコさんだけではない。自分の専門の立場から、信念を持って闘う人たちは、力のある人々にとって非常に都合の悪いことを知り、発信するため、組織的に攻撃を受けることがままある。

都合の悪い現実へ目を向けさせる人たちは嫌われる。

特に政治的に、力ある人々にとって都合が悪い。

しかも、一般常識は、力ある人たちの基盤であるし、多くの人々は少しでも都合の悪い現実など見ていたくないので、

常識に外れるようなことを言ったり、常識に外れるような気骨のある行動をしたりする、闘う人たちに対しては、

嘘つきというレッテルか、誹謗中傷か、あるいは無責任な賞賛や憧憬を表す言葉が浴びせられることになる。

 

私自身、そういう闘う人たちの言葉を、心から信じられなかったりすることもある。

当事者でない私は、無責任な視聴者だ。

電源を切れば、私に関わりのない出来事となる。

そういう自分のことを観察し続けている。

 

そんな卑怯な私だけれど、ナザレンコさんの今日の話は、物語として私の心に響いた。

祖国を守るために戦えず、祖国の地を踏むことができない悲劇。

情報戦と言っても、そんなバーチャルな戦いがしたいわけではないだろう。

けれども私のすべきことは、私にできることは、私が決めるものではないのだろうと言い、与えられた環境の中でできることを探し、行動しようと生きる。

 

生きることは苦だ。

仏教徒としてそのように感じる。

幸せの絶頂も幻だし、不幸のどん底も幻だ。

自分がどうすれば良いのかわからない時間も、きっと幻だ。

すべて事実であるかのように思い込んでいるけれど、

きっと長い夢から醒めたときに感じるように、この生涯も一瞬なのだ。

だから、よく生きたいと思う。

 

 

先日、ドストエフスキーの『死の家の記録』を読んだ。

これはドストエフスキー政治犯としてシベリアで監獄に入っていた体験を元に書かれた小説。

その後、加賀乙彦の『頭医者』を読んだら、あまりに似通っていて驚いた。

それもそのはずで、加賀乙彦は『死の家の記録』に大変感銘を受けていたのだ。

精神科医として監獄医を勤めていた加賀乙彦は、囚人たちを描いたドストエフスキーの観察眼の確かさに驚いたと『ドストエフスキイ』に書いていた。

そして、この現代社会も監獄のようだと思うという加賀乙彦の意見に、私も賛同する。

 

私が恐ろしく感じた早期回想を思い出した。

以前このブログにも書いたけれど、阪神大震災の数週間後、親戚の家に身を寄せていたとき、

そのマンションの公園で、弟と2人で遊具の上に登って、だだっ広くて誰もいない公園を眺めていたときのことだ。

灰色の空も大きくて、公園を取り囲むマンション群も大きくて、

そして誰もいない。

私はどうすればいいのかわからなかった。

あの恐怖が、私には今もある。

それは加賀乙彦が、無期懲役囚の感じている絶望感と表すものだと思った。

 

この恐怖を振り払うために、私は集中できる何かに全身全霊を傾けるのだろう。

一瞬の幸せを掴むために、そのためにすべてを捨ててもいいと本当に思ってしまう傾向がある。

そのために自助グループもパセージもカウンセリングも、私の生きる糧としてしまっている。

それは加賀乙彦が、死刑囚の感じている妙な高揚感、引かれものの小唄と表すものに近いと思う。

 

 

この現代社会の決して脱け出ることのできない牢獄の中で、

私は自分の物語を作って、瞬間瞬間に生きている喜びを感じていたい死刑囚なのだろう。

明日告げられるかもしれない余命1日を、繰り返しているのだろう。

だから、せめて、よく生きたいと思う。