今日も絶対的休日。
と言いながら、ひとつの原稿仕事に取り掛かった。
まったくお金にならない仕事であるところが我ながら素晴らしいと思う。
またそのうち、ご縁のある方に読んでいただけたら嬉しいです。
最近、エンジンがかかるのが早くなったと思う。
メールの返事も早くなった。
アドラーネットへの投稿とか原稿仕事も、
とりあえず書いてみる、ということができるようになったようだ。
最初の一文字を書ければ、もう8割方できているのだと、
誰かの言葉だと聞いた。
もっともだと思う。
すぐに書き始められなかったのは、またこれも私の冗長性で、
うまく書けなかったらどうしようという自己執着によるものだ。
このブログはどうかというと、
文字数制限がなくて、内容に制限もなくて、
私の立場的に気をつけなければいけないこともないので、
たいへん気楽に書ける。
最初の頃何日か、書くことが難しいと思った日があったけれど、
慣れてしまえば大丈夫になった。
食事の用意のようなものだ。
私は料理は得意ではないが、私が料理しなければみんな生きていけないので、
とりあえず栄養を摂取できる食べ物を用意する。
私は毎日の生活の一部として、文章が書けるようになった。
読んでくださるあなたのおかげです。感謝しています。
ブログのような私的なものではなくて、人の目に触れる原稿仕事は、
やはり色々な制限があって、その緊張感が私は実は好きだ。
制限文字数以内で、求められる内容に沿った文章が、締め切りまでに書けると、
私は達成感を感じる。
締め切りまでは、満足できるまで手を加え続けることができることが、
私はとても安心する。
自分の努力次第で、自分の満足できる結果を出すことができると思っていて、
良い文章を書けないのは、条件に合う文章を書けないのは、
全て自分の責任だと思えるから、後悔することがない。
…なんでこんな大変な依頼を引き受けてしまったんやって後悔することはあるけれど。
そこに関しての後悔はあるけれど、
文章を書くという私の働きについて、後悔したことはないように思う。
翻って、自助グループやパセージやカウンセリングは、
あるいは人前で挨拶や司会や発表をしたときは、
私はいつもいつも後悔しているように思う。
ライブは、時間との戦いだ。
そして私の言葉は、一度口にしてしまえばもう取り消すことができない。
そのことが、未だに私は怖い。
でも、だからこそ、うまくパフォーマンスできたとき、何よりも達成感を感じる。
そのパフォーマンスの上手い下手というのは、
相手に対して良い働きかけができたかどうかという意味だ。
私はどこまでも完璧を追い求めているらしい。
自分の文章に手を加え続けることが好きだということ、完璧主義の最たる例だと思う。
自分の世界の中で完結させたいようだ。
だけど、それでは私は世の中のお役に立てないとわかった。
だから、修正できない言葉を使う仕事をすることは、
私にとって勇気のいることなのだ。
自助グループもパセージもカウンセリングも、
一瞬一瞬の判断と瞬発力が要る。
とっても苦手だ。
だけど、とっても刺激的だ。
台本通りに進めていても、エピソードという生物を扱う限り、
毎回、私の予測できないことが起こる。
それがとっても面白い。
なんだ、やっぱり私はこの予想外のライブが好きなんじゃないか。
人生にやり直しがきかないことは、この一言を取り消せないことと同じだ。
私はいつも迷ったり失敗したりしながら、生きている。
文章はある意味で死んだ言葉だ。
取り消しができる言葉は、私の理想、頭の中にあるだけで、現実の言葉じゃない。
地図を見て現場を見ないのと同じように、
私は文字だけを追いかけて、声を聴いていなかったのかもしれない。
同じ瞬間を共にすることが、生きるということだ。
そこで語られた言葉が、それが物語だ。
私の想定範囲の外へ出よう。
その勇気を、私はちゃんと持っていると思う。