今日は自助グループの定例会でした。
パセージを受講し終わって、アドラー心理学をより深く学んでみたいというメンバーさんばかりだったので、
久しぶりにパセージのその先の話が色々とできました。
パセージプラスのテキストを読み合わせしながら。
ちょっと飛ばし気味だったかもしれなくて、申し訳なかったですが…。
エピソード分析も、とっても久しぶりにさせていただきました。
みなさんのご協力に感謝しています。
パセージリーダーは、とってもたいへんです。
パセージの枠組みの中でしか動けないから。
アドラー心理学の用語を使うこともできないから。
でも、言葉にしていなくても、共同体感覚の方に向かっているかどうか、
常に点検しておかなければならなくて、
これは改善が必要だなと思ったら、
質問をしてみたり、選択肢を与えてみたりしながら、
さりげなく軌道修正していかなければなりません。
そしてすべて、メンバーさんたちが洞察し、
自発的に、代替案を考えたりやってみようと思えたりするように
たくさん勇気づけながら、
その場をデザインするのです。
そのあたりが、芸だなあと思います。
今日は、私が自助グループを再開してから、初めて共同体感覚という言葉を使いました。
今まで一度もこの言葉を使うことなく、
でもその内容は、毎回毎回イメージを持ってもらえるように、学んでもらえるように、やってきたつもりです。
今日のメンバーさんたちは、パセージ中なども、
こっちにいったら多分パセージやアドラーとは違うな、っていう感覚を研ぎ澄ませておられるので、
とても嬉しいです。
そこにさえ気づいておられたら、あとは私は、公式を知っていますから、それに当てはめるだけです。
一番難しいところは、共同体感覚に向かっていること、という目的を持ってもらえるかどうかなのかもしれません。
今日エピソード分析させていただいたエピソードから、
事例提供者さんが大切にしておられる価値観、私的感覚が見つかって、
ああ本当にこの方は、この素敵な価値観を使って、
人々の中で生きようとしておられるなあと感じていました。
この方の大切にしておられるものは何なんだろうって、探すこと、
こんなに感動的なものなのだと知りました。
私には他の方がどういう方なのか、見抜くことはできません。
心理学について勉強していたら、他人のことを見透せるんじゃないかとか、
素人は(?)よく思い込むものですが、
そんなことはできないのです。
私が他の学派の心理学を好きになれないのも、
何か確固としたその人というものがある、それを理解していこう、という前提があるからです。
私は、人って理性で理解しきれるような、そんな単純なものではなくて、もっと神聖なものだと思うし、
また、人は他の人を分析してわかることができるような、そんな大したものでもないと思うのです。
アドラー心理学は、その人そのものがどういうものかを、
そもそも知ろうなんてしないところが好きです。
問題があるところに関与している部分にだけ焦点を当てます。
でも、その部分は、決してただ切り取られたパーツでそれだけで成り立っているというわけではなくて、
全体の中の一部で、その人全体の傾向と調和している部分なのです。
だから、今問題が生じているその人のライフスタイルの一部分を丁寧に考えていくことで、
その部分を、共同体感覚に向かうように、別のより良い方法や考え方を学んでもらうことで、
部分的に修正をしてもらったとき、
部分の成長が全体の成長につながるのです。
そうして、ライフスタイル全体も、いつの間にか共同体感覚に向かうように成長しているのです。
…というようなセラピーを、私は目指しています。
これを目指していれば、痛くない治療というものができるだろうと、
私は思っています。
もちろん、道はほど遠くって、
今日も相変わらず、拙いエピソード分析でした。
でも、何を目指したらいいのか、どんなイメージを持ってもらえればいいのか、
それは、もう迷わなくなったと思います。
それから、私は大きな事件を取り上げたがるくせがあったのですが、
小さな出来事でも、その背後に、
その方にとってのとても大きな意味が隠れていることがわかるようになったので、
小さな物語も、大事に味わって、
ためらわずにエピソード分析ができるようになったと思います。
たくさんの仲間のおかげで、私の学びがやっと、誰かのお役に立てるようになってきた…かな?
そうであればいいなと思います。
芸を磨くには、言葉での理解と、場数が必要です。
私にたくさんの場を与えてくださって、みなさん、本当にありがとうございます。