今日は久しぶりに何もない日。
あまり用事も進まず、霞がかった中で長い時間を過ごしてしまった。
だけど、野田俊作ライブラリの文字起こしは、2時間ほど作業できた。
少しでも前進しているところを探してみようと思う。
野田俊作ライブラリというのは、アドラーギルド社が有料で配信している、
野田先生の講演や講義の録音だ。
勉強会のために文字起こしをしていて、確かに、
文字情報になって、じっくり読めるようにするとたいへん学びやすい。
だけど、音声の良さもよけいに感じるようになった。
先生の息遣いが、間合いが、抑揚が、
文字情報だけでは伝えきれない様々な情報を含んでいる。
ライブラリを聞いていると、勉強会や自助グループで、何か関連する話題になったとき、
先生の声で、先生の言葉が浮かんでくることがある。
文字よりも、声の方が深いところに記憶されるようだ。
そしてもちろん、直接お会いしてお話しいただいたことは、
強い印象を持って、思い出せる。
私は昔から機械が苦手で、アナログな人間なので、
オンライン推奨のこの風潮が、早く終わればいいのにと思っている。
パソコン越しの相手は、生身の相手とは明らかに違う。
映像がどれほどきれいでも、生演奏にはかなわない。
私たちは、子どもたちにちゃんと現実を学んでもらえるような世界を作っているだろうか。
次男が最近、色んな生き物を触れるようになってきた。
長男はヤモリを捕まえてきて、しばらくみんなで愛でて飼ったりしていたけれど、
次男はなかなか触れないでいた。
それが最近、クワガタムシや蝶や、カタツムリやバッタやてんとう虫など、
見つけると夢中になって捕まえて、かわいいねと愛でて、逃がしている。
自粛期間中、ずっと閉じこもっているのもどうかと思い、
朝、近所の散歩に出かけたりもした。
あの3月の頃、枯れ草ばかりで茶色だった庭も川辺も、
今は深い緑に輝いている。
幼虫ばかりだった茂みに、つやつやとしたてんとう虫の成虫がいっぱいになって、
今はもうあまり見かけない。
ツバメの親たちが飛び回るようになって、巣の中から小さな鳴き声が聞こえ始めて、
身を乗り出しているヒナたちの姿が見えて、にぎやかになって、
危なっかしく飛ぶ練習をするようになって、もう今はみんな旅立った。
そんな季節の移り変わりを、この春から夏にかけて、私は次男と一緒に感じてきた。
今まで目に止めなかった周りの生き物の豊かさを、ありがたいものだと心から思った。
私たちが新型コロナのことで頭をいっぱいにしていても、
確かに季節は移っていって、生き物たちは変わりない生活を繰り返している。
あの日々があって、次男がより生き物たちと仲間だと思えるようになっているのだったら、それをとても嬉しく思う。
もうずっと昔、ムシキングとかいうテレビゲーム(?)が流行っていた。
ゲームの中で虫たちを戦わせるという趣向だった。
オモチャ売り場で父がそれを目にして、「今の子はほんまの虫で遊ばへんのか…」
とため息をついていたのを覚えている。
ゲームの中の虫だったら、死ぬことがない。
何回でも戦わせて遊ぶことができる。
世話をしなくても、電源を入れたら現れる。
なんかとんでもない世界になっていっているんじゃないかと、
子どもながらに私は怖くなった。
お友だちの持ってきたクワガタと、今日も戦わせるんだー
と言いながら、虫かごを抱えて幼稚園へ向かう次男は、
ちゃんとリアルな世界で生きている。
それを嬉しく思いながら、
大人になってしまった私たちは、ちゃんとリアルな世界で生きているのだろうかと思った。
オンラインの勉強会はとても便利だし、よく知っている仲間たちだから
とても学びも深まるけれど、とても楽しいものだけれど、
でも本当は顔を合わせて、同じ空間の中で学びたい。
カウンセリングをオンラインでしている人々もいるようだ。
アドラー派という看板を掲げている人々の中にも。
そんなこと、絶対に不可能だと私は学んできた。
何がリアルで何がバーチャルなのか、区別ができない大人が増えているのだと思う。
ここで私の書く言葉も、私の知らない多くの人に、
いったいどれだけ伝わるのかあやしいものだ。
霞みがかった頭では、自分の作り出すバーチャルなレポートばかりを見つめてしまう。
リアルなものはエピソードだ。
実際に顔を合わして心を通わす人間関係を作っていくこと。
その当たり前のことが、どれほど大切かを知った。
その当たり前のことを、あらためて言わなければならなくなっている。
うるさいだろうけれど、私は言い続けようと思う。
アドラー心理学は、現代に対して批判的な立場に立つ。
それをわからずに、アドラー派を名乗るのは、まがいものだと思う。