静かに眺める

ぶら下げていた言葉が、期が熟して、腑に落ちるということが

最近とても多い。

このブログを書き始めて、まだ2週間というのが信じられない。

毎日、自分がどんなエピソードを紡いできたかを確認して、

私が考えていることを言葉にして、

そして人にわかる文章で、よごとを探していると、

1日の時間の限られていることを感じられる。

私に許されている時間に限りがあることを感じられる。

私が一人で生きていないことを感じられる。

今までほんとうに、無駄な時間を浪費してきてしまったと思う。

霞がかかっていたような時間が多かった。

今私は、多くの時間を目覚めているような気がする。

 

いつでも私を有効に使ってもらおうと思う。

目的を持てるようになった、とも言えるかもしれない。

そうして目覚めて過ごしていると、私の役目は、あちらから勝手にやって来る。

パセージを学びたいと言ってくれる初めましての人たち、

もっとアドラー心理学を学びたいと言ってくれるいつもの仲間、

その人たちが、私に役割を与えてくれる。

私自身のやることは、向かっている方向は、何も変わっていない。

ただ変わったのは、私が私の身に起こることすべてを、

人々とのつながりの中でとらえるようになったことだ。

たとえば子どもたちに対しても、

私の一言一言が、この子たちの早期回想になるということを思うようになった。

 

二重に物事が見えるようになってきたと思う。

私はいつも、相手役に対して働きかけをしている。

そして同時に、私はいつも相手役だ。

 

 

以前は、誰かと楽しくお話しをした後でも、どっと疲れていたように思う。

今は、グループを動かすという立場になるとエネルギーを使うけれど、

ひとりとひとりでお話しをするとき、もう疲れたりしなくなった。

大切な話ができた後、勇気づけられてしまった後、

この一瞬の光景を留めておきたいと思うだけの、とても静かな私を感じる。

私は人に過剰な期待をしなくなった。

そして同時に、私への過剰な期待を受け取らなくなった。

私はあなたの苦しい気持ちをわかりたいと思う。

私はあなたの喜びを喜びたいと思う。

私はあなたが私にとっての喜びを喜んでくれることを嬉しく思う。

私はあなたと一緒にできることがあるなら、やってみたいと思う。

そういう静かな状態の私でいるとき、私はとても心地よく感じる。

 

 

私は傲慢で野心家なので、

人に期待されることが好きで、人の期待以上のことをやってみたくて、

賞賛を浴びることが好きだった。

そういうときの私は、とてつもない緊張状態でいる。

でも、その緊張や期待というものがなくても、

多分私は同じ程度のパフォーマンスをすることもできるのだと思う。

ちょっと沈んでいるときの方が、私は多分つきあいやすい人間だ。

調子に乗ると嫌な奴になる。

世間話が苦手だから、私は私のことばかりしゃべってしまう。

それでしまったって思って、緊張する。

これらの問題は全部、私が私にばかり意識を向けていたことによるのだろう。

 

静かな私になれるようになったのは、

これは私にとっては、アドレリアンセラピーを受けたおかげではなくて、

アドレリアンセラピストになる修行のおかげだと思う。

カウンセラーになりたかったのは、実は誰かを救いたかったからじゃなくて、

私がより成長したかったからだった。

つまりは箔がほしかったからだ。

いかに私が、私にしか興味がなかったかがわかって恥ずかしいが。

私はカウンセラーになる過程で、

(パセージリーダーになる過程では、残念ながら私は変わらなかったと思う)

人の話が聴けるように、つまり人の物語を感じられるようになった。

でも意識していないと、目覚めていないとそれはできない。

私は油断すると、すぐに私のことを考えている。

 

 

毎日こうして振り返ることで、私は目覚めている状態を点検しているようだ。

ここには書けなくても、たくさんの人々との物語を思い出している。

そのとき静かな私でいられたことを、よかったと思う。

相手も私のことを心から思いやってくださっていたことを思い、

心からありがたく思う。