寿ぎの呪文

今日はカウンセリングでした。

 

今日は6回目のセッションです。

大きな出来事をお話しくださって、とても嬉しく思っています。

アドラー心理学やパセージを学んだことのないクライアントさんなので、

もう時間がかかることは仕方のないこととして、

相談目標を決めて、そこに向かって頑張って行きましょう!って、

2人で命綱を着けてロッククライミングしているような感じです。

とてもわくわくします。

クライアントさんも、大きな陰性感情を抱いたエピソードなのですが、

新しい考え方、物の見方を学んでいくことを積極的に受け入れてくださっていて、

自分の思い込みを変えていくことを、楽しそうに挑戦してくださるのです。

それがとても嬉しいです。

 

いいことに気づかれたことをお話ししてくださったので、

アドラー心理学の基本前提、仮想論についてお伝えしたりもしました。

不格好で不器用なんですけど、エピソード分析を中心に置いて、

とにかく私にできることを全部やってみているところです。

ひとつのエピソードで、今日は2回目だったのですが、

次回までエピソード分析は続くことになってしまいました。

今日は私的感覚までは出せたので、次回こそは代替案を考えてみたいです。

 

とてもガッツのある、知的で、貢献したい気持ちに満ちたクライアントさんだと思うのです。

苦しんでおられたのは、自己評価が低かっただけなのだろうなって思うのです。

4回目のセッションの日、

クライアントさんのまとう空気が、明るく澄んだように変わったと感じました。

私だけに感じられる小さな変化だとしても、

まったくの私の思い込みなのだとしても、

それは私にとってはとても大切なことでした。

 

幼いときに親や他の人から言われたネガティブな言葉を、

「魔女の呪い」と呼ぶそうですが、

アドラー心理学では、それを子ども自身が自分にかける呪いだととらえます。

自分でかけた呪いは、

自分で解くことができるのです。

これは思い込みの呪いだから。

カウンセラーは、解除呪文を探すお手伝いをするのです。

私的感覚を探すことが解除呪文を見つけるヒントになるので、

一緒に私的感覚を探していきます。

 

私たちがすることは、言葉を使って、世界を変えることです。

解除呪文を唱えることで、

クライアントさんはまた新たな思い込みに縛られますが、

その思い込みは、呪いの呪文ではなく、寿ぎの呪文なのです。

他人も、自分も、良い意図があって、一生懸命やっているっていうことに気づき、

どこかで手を繋げるところがあるにちがいないと探し続ける、

そういう苦しいけれど幸福な道を歩ける勇気を持ち続けられるように。

絶望しかけても、まだもう少しだけ、今日よりは明るい未来が作れるかもしれないと

そう思い続ける勇気を持てるように。

それは、ひとりではきっとくじけてしまうと思うのです。

だから私たちはお互いに、小さなよごとを見つけては、寿ぎの言葉を贈り合うのです。

まがごとを見せる呪いの言葉と同様に、

寿ぎの言葉も、ずっと消えずに心に留まります。

 

 

どれだけ美しいものを見て生きていけるかな。

それは全部、私の思い込みかもしれない。

だけど、私は美しい思い込みの中で、

人々は善意で動いているという思い込みの中で、生きていきたいと思います。

なぜなら、クライアントさんがそうやって新しい世界で生きようと

勇気を持って、この道を選んでくださったから。

私が世界を美しいと信じられなければ、クライアントさんたちも信じることができないと思うから。

良い世界を信じることは、アドラー心理学を信じる私の責任だと思うのです。

 

贅沢な1時間

今日はほんっとうに久しぶりに、お友だちとお茶をしてきました。

彼女とゆっくりおしゃべりをするのも1年ぶりぐらいですし、

お友だちとお茶をするというのも、滅多にない機会でした。

とても楽しい時間を過ごすことができました。

 

コロナ禍のおかげで、気づかせてもらったことがたくさんあります。

ひとりでカフェで本を読んだり文章書いたり、

お友だちとカフェでおしゃべりしたり、

アドラーの講座や夫の出張先へ出かけたときに

知らない街の本屋をぶらぶら覗いてまわったり、

そういうことが私の小さな楽しみでした。

贅沢な暮らしだったと思います。

そのことに気づけたことは、幸せなことだと思います。

今はなかなかできないけれど、

できるできないに関係なく、

私の心地よさはそういうところにあるんだと、忘れないでいたいです。

 

 

おしゃべりをしていると、

今まではお友だちのお話の全貌が見えてから、あるいは私の話を理解してもらってから、

それについてあれこれ話し合うのが面白いって思っていたのだけど、

今は、その相手のお話を描いてもらうそのときから、その語り方も、

面白いって思えるようになっていることに気づきました。

エピソードをちゃんと受け止められるようになったのかなと思いました。

そうすると、お友だちの物語だけでなくて、

お友だちの相手役さんの物語が見えてきました。

今までは、話し合ううちに描き込みまくるので、

完全に友だちの主観の物語に浸かっていたのです。

でも、もっとそのエピソードは重層的で、もっと深い物語であると

感じられるようになりました。

 

その彼女がいつも相手役さんたちの良いところを見つけておられるから、

というのも大きかったかもしれませんが、

私はお話を聴くのが好きなんだなと気づきました。

本の中にも物語はある。

でも、目の前の人々の中にも、たくさんの物語がある。

人はみんな物語を生きているんだ、と思いました。

 

 

意見を文章にすると、乾燥していて、味気ないです。

物語として語れば、生き生きとして、命が通っていることを感じられます。

実際に顔が見えないコミュニケーションというのは難しい。

お茶でも飲みながら、穏やかに話し合える世界が戻ってくればいいなと思います。

 

ハーメルンの笛吹き

今日はパセージOBメンバーさんとの抄読会でした。


メンバーさんたちに進行役をしてもらうと、

その方のストレンクス(良いところ、強み)がよく見えます。

私も真似して取り入れてみようというところが毎回見つかるので、

とても有意義です。


また、自分のストレンクスにも気づけます。

私は場を盛り上げるのが得意なのかな、と思いました。

これは良い点でもあります。

みなさんが楽しんでくださるから。

しかし、私の誘導にみんなついて来てしまうのです。

例えばパセージでいうと、私が良かれと思って別の話をしたら、

テキストから離れて私の話の方にみんなが惹きつけられてしまう

という危険性があります。

いわばハーメルンの笛吹き男です。

この能力は、上手に使わなければならないと思いました。



私とはまったく違う個性の、

控えめで、メンバーさんたちの動きを大事に進行される方は、

テキストに忠実に進めていくという素晴らしいストレンクスがあると思いました。

余計な私見を挟まずに、勇気づけの言葉はお伝えしつつ、進行に徹する姿から、

テキストとメンバーさんをつなぐのがリーダーの役目だと、

我流が出そうになる自分に注意しようと思いました。



私は本当に、メンバーさんたちに育ててもらっている、と感じます。

色々と挑戦したい計画中のことはありますが、

やはり自助グループで学び合うことが、最も大切だと思います。

そこから外れて、アドラー心理学の実践は存在しないと思います。


自助グループの良さは、

非専門家の普通のお母さんたちが、お互いに勇気づけ合って、

よい育児を協力して実践し、広めていって、

やがてアドラー心理学の理論や思想の奥深さに気づいていく、

共に学ぶ仲間を作っていく、

そういう自分の実感から始まる、学びの広がりと深まりにあると思います。

頭だけで考えているアドラー心理学者は、アドレリアンではないのです。

自分の体験と感動の伴わないものが、ただ援助の方法として有用なものが、

世の中でアドラー心理学と呼ばれていても、私はそんなものを学びたくはありません。




サイレント・マイノリティー

昨日はカウンセリング、今日はアドラーの著作のオンライン抄読会でした。


昨晩は水曜日から続いていた勉強会等の緊張が緩んで、

早い時間から朝まで寝てしまっていました。

そこそこ元気にしています。

毎日フルタイム勤務をしている方たちのこと、すごいなあと思います。

それから、組織の中で働くということも。

でも、組織があるからこそ働きやすい面もあるのでしょうけれども。



私は今個人的にカウンセリングをさせてもらっています。

私は日本アドラー心理学会の認定カウンセラー資格を持っていますが、

世間に通用する資格ではありません。

もしも日本アドラー心理学会日本学術会議の下部組織となれば、

日本アドラー心理学会の後援の講座は大学の単位と互換できるようになったり、

日本アドラー心理学会の認定資格が意味を持ったりするようになるでしょう。

ですがもしもそういう道を取るとすれば、

それは非専門家である私たちが学会から締め出されることを意味します。

そうすると、誰もが学べる学会ではなくなってしまいます。

難しい選択だと思いますが、学会はずっと、

非専門家と専門家が共に学ぶ路線を選び続けてきました。

私も、それが最も良いことだと思っています。

アドラーの、平等で対等な人間観を体現していると思うからです。



ですが一方で、誰でもが学会員になれる学会だからこそ、

生じている問題もあると思います。

例えば、学会員であることは、アドラー心理学を理解して実践していることとは関わりがありませんから、

日本アドラー心理学会員ですということを掲げて、

アドラー心理学まがいのカウンセリングを行う不届き者が現れたりします。

ある場合は、困った方からの情報提供で判明します。

でも、ほとんどの場合、見つけることは難しいです。

そんなことをするわけがないという相互信頼に基づく共同体だったはずですから。

そして、世の中的に、日本アドラー心理学会の認定カウンセラー資格というものも、

日本アドラー心理学会の学会員であることと同様に、

何の後ろ盾もない、吹けば飛ぶような資格なのです。

それは学会内部で通用するだけの資格です。

たいへん心許なく思います。


私はなんだかもう、わからなくなってきました。

もはやアドラーでもなくなった有資格者もいるのかもしれません。

ペーパードライバーみたいなもので、試験の時は合格したのです。

総会などに参加して更新ポイントさえ獲得しておれば、

ペーパードライバーでもゴールド免許なんです。

こういう例は資格につきものなのでしょうけれど。


それで、私は日本アドラー心理学会の認定カウンセラーとして恥ずかしくないように、

自分の腕を磨こうと努めていますが、

自分の安全性を証明するためには、

外部の資格というお墨付きを得なければならないのです。

もう覚悟を決めましたので頑張ります。

ですがいずれは、日本アドラー心理学会の認定資格が、

きちんと世の中に通用するものになればいいと思っています。

そのためにはもっと充実させなければならないことが山ほどあると思います。



学会のために、

頭の中のレポートでなくて、

自分の行動として、エピソードとして貢献できる人と共に、

私にできることをしていこうと思います。

学会誌アドレリアンへの投稿、

総会での発表、

それから日々の実践と、

自助グループ活動、パセージの開催、カウンセリング…

結局いつも同じこと書いていますが、

私はやれるだけやっているのかなあ…。


なんだか、当然のことになってきて、以前のような達成感がありません。

きっとプロになってきたんだと思うことにします。

プロは毎回合格点が取れて当然です。

…カウンセリングは決して上手くはないのですが、

まあ、それなりにはなってきたと思います。

そう思えるようになったことは、成長かもしれません。


ここから先は、メンバーさんとクライアントさん、勉強会の仲間たちに、

私を成長させてもらおうと思います。

もう私だけの努力では、限界です。


幸せの構成要素

今日はカウンセリングと野田俊作ライブラリのオンライン勉強会でした。

それから、短期的目標と長期的目標の、あるプロジェクトの打ち合わせをしました。

 

共にアドラー心理学やパセージを学んだ方々と

その点だけで一瞬交わるのではなく、

人生の線上を共に歩いていけることがとても嬉しいです。

これまでの物語を聞かせていただけることがとても嬉しいです。

深いご縁があったのだと、そうとしか考えられないでいます。

 

だけどきっと、これまでに私がすれ違ってきた多くの方々とも、

私はご縁があったはずなのだと思うのです。

そのことに気づけなかっただけで。

私は人々の中に、組み込まれて生きているから。

人生でたった瞬間しか交差しない方に対しても、

私は私のできることをしていきたいと思います。

それは例えば、ドアを少し長めに押さえておくとか、

支払うお金を丁寧にトレーに置くとか、

そんな些細な些細なことであったとしても。

私がこの土地に生かされていること、この国に生かされていることを

感謝しようと思えました。

そんな1日でした。

 

子どもたちの幼稚園(プロテスタントです)の園長先生が、

「出会うすべての人を、神さまだと思いなさい」

と仰いました。

そう信じて生きることは、幸せだと思います。

私は、出会うすべての人を、菩薩さまだと思うことにします。

宗教はメタファーです。

大切な本質は、どの宗教でも同じことだと思います。

 

 

 

カウンセリングをするのは、ありがたいお役目だと思っています。

クライアントさんたちが、どんどんご自分の能力を発揮されて、

周りの方たちのために役目を果たしていかれるご様子を

聞かせていただくことができるのです。

 

私がしていることは、ただ色眼鏡をかけ替えてもらう提案をするだけです。

より良いと思う色眼鏡を選ぶのも、その色眼鏡をかけるかどうか決心をするのも、

すべてはクライアントさんの勇気によります。

私とクライアントさんの相互の勇気づけの物語が、紡がれていきます。

本当にありがたいです。

 

 

 

アドラー心理学を学んでいる人は、幸せだと思います。

なぜなら、幸せになる方法をアドラー心理学は知っているから。

それは、「これはみんなのためにどういう意味があるのか、みんなのために自分には何ができるのか」と考えること、

つまり共同体感覚を目指して世のため人のために貢献することです。

そして、そういう幸せな人たちと共に生きることです。

ひとりきりで幸せになることはできません。

 

言葉ではどんなことでも言えます。

わかっていなくてもわかったふりができます。

だけど、文章というのは、使われた言葉のひとつひとつや文脈に、

そこにその人が表れてしまうと私は思います。

アドラー心理学を学んでおりながら、自分を幸せだと思えていないのなら、

そういう人はまだアドラー心理学を実践できていないのだ、と私は思います。

 

なぜそう言えるかというと、私がかつてそうだったからです。

一生懸命学んでいたのに、本当に頑張っていたのに、

私は家族と良い関係を築けずにいました。

なんで私だけが不幸なんだって思っていました。

そう思っている限り、実践できていないのです。

家族や周りの人たちが幸せになって、私は幸せになりました。

 

家族や周りの人たちの幸せには、必ず私が貢献する余地があるはずなのです。

その貢献の仕方は、

ある場合は、私が意見を言わずに黙ることかもしれないし、

ある場合は、相手の意見を尋ねることかもしれないし、

ある場合は、自分の意見を意見として伝えることかもしれません。

それはひとつひとつのエピソードについて考えていくことです。

答えは、本人にしか見つけられません。

 

このあたりのことがわかれば、

誰でもアドラー心理学のカウンセリングができるようになると思います。

幸いにも私たちには「エピソード分析」という方法があります。

共に学んでいきましょう!

 

長子の盲点

今日はオンラインで、アドラー心理学のことについて

熱い思いを聞かせてもらいました。

また別の勉強会の仲間たちの熱い思いも、聞かせてもらいました。


(パセージの)メンバーさんたちがやけどしちゃうから、もうちょっと温度を下げなさい、

と野田先生に言われた私ですが、

私の熱さでもやけどしないレベルの熱い方たちと話し合うことができて、

たいへん嬉しく思います。

それぞれの目的があって、それぞれの能力を活かして、

より良い人間関係を築く社会を作っていこうとしている仲間たちです。




具体的には書かないのですが、

私は、すべてのルールは、無いに越したことはないと思っています。

でも必要な場面があるので、ルールが存在するならば、守られなくてはならないと思います。

悪法も法のうちです。

その悪いルールを変えるためには、正しい手順を踏まなければならないと思います。

どれだけルールが悪くても。

どれだけその個人の意見が素晴らしくても。

そして、ルールを変える手続きがまだ存在しないのならば、

まずはそのルールを変える手続きをどうするか、話し合わなければならないと思います。



個人の意見の良し悪しに目を奪われて、

そのルールの範囲内で話し合えることなのかどうか、

見誤っていることが多いのではないかと思っています。

ちょっと絶望的です。

みなさん良い意図です。

しかし「地獄への道は善意が敷き詰められている」のです。



個人の意見が、それまでに培われてきたより大きな組織のルールよりも良いものであると、

私は無邪気に信じることができません。

いくらかの改善に寄与できるかもしれないけれど、

個人意見はもっと様々な視点から話し合いを重ねて、

多くの方が納得してから採用されるべきだと思います。

これは私が長子だから余計にそう思うのかもしれませんが…。


長子は自分が公正で公平な場を作れると信じて、不公平を作り出す。

末子は公正や公平の存在を疑い、不公平だと言い募ることで不公平を作り出す。

長子はルールをルールと気づかず無視をする。

末子はルールをルールと気づいて意図的に破る。

そんな違いがある気がしています。

でも、どちらの立場についても、

そんなに個人は賢くないでしょう。

いつもいつも正しくはおれないでしょう。

それに、そんなに個人と個人の間に違いはないでしょう。



人を動かすことを目的にした時点で、アドラー心理学でなくなると思います。

出発点はいつも、「私にはみんなのために何ができるか」です。

そして「ルールの中において」ということが、

私は無意識的に前提としていることに気づきました。

ルールが蔑ろにされている時点で陰性感情を抱いて動揺する、

これもまた大変長子的なのでしょう…。


選択する自由

今日はカウンセリングと、オンライン勉強会でした。


日中はパセージのチラシを配りに行って、

放送大学に寄ったらK先生にお会いすることもできました。

K先生は、いつも私をどう役立たせるかということについて、水を向けてくださいます。

そして、今日もまたひとつ、見て見ぬ振りをしていた1つの選択肢を選ぶよう、

勇気づけられてしまいました。

いえ、多分実際は逆なんです。

その選択肢を選ぶべきだろうけど選びたくないなあと思っていて、

だけど選ぶ勇気がほしくて、K先生のところへ私は行ったのです。

答えはいつも自分で出しているんです。


私が一般的に考えられない道ばかりを

断固として選んでいくのを、

K先生はどんなときでも、応援してくださいました。

本当にありがたく思っています。


周りの方たちに恵まれて、私は生かされているなあと思います。

まったく見知らぬこの土地に来て、

ひとり暮らしから始まったのですが、

ここで家族を得て、

たくさんの方と出会えました。

今、たくさんの方々に協力していただいて、

自助グループやパセージやカウンセリングを、

公的機関などの力を借りずに行えていること、

これは不思議なことだと思います。

ご縁だと思いますし、きっとそれが私のお役目なんだろうと思うことにします。



今日始まった新しいオンライン勉強会も、

ご縁のある仲間ばかりです。

アドラー心理学の勉強を深めることももちろんなのですが、

お互いの物語を共有していきたいと思います。




毎日こうして、濃密に勉強して過ごしていると、

根つめすぎ違いますかと思われるかもしれませんが、

意外と大丈夫です。

夜は、海外ドラマを観ることが多かったのですが、

それの代わりにオンライン勉強会になっただけです。

特に趣味もないのです。本を読むほかは。

それで、読む本がすべて勉強に関するものになっただけです。

日中に自助グループ、パセージ、カウンセリングというお仕事をさせてもらえるようになって、

まっとうな社会人になったなあと嬉しく思います。

ただし、よく昼寝はしています。相変わらず。




オンライン勉強会の日は、会の開始30分前、たいてい20時半が

「お母さんの営業終了時刻」となります。

私に用がある場合はそれまでにお願いしますと、

当日の夕方に子どもたちにアナウンスをします。

営業終了時刻を過ぎたら、

後は子どもたちだけでお風呂や寝る準備をしてもらうことになるのです。

2人で夜更かししていることもあれば、

お風呂で遊びまくっていることもあれば、

いい子にすぐ寝ていることもあります。

そんな風にして、私のオンライン勉強会をサポートしてくれるのがとてもありがたいです。



毎日ブログ更新も続けられているし、

実はドイツ語の勉強も長男に手伝ってもらって、ほぼ毎日続けられています。

食器もすぐに洗っているし!

私は毎日同じことを続けるというのがほんとに苦手だったのですが、

少しずつ成長していっているのではないかなと思います。

いつも読んでくださるあなたのおかげです。

ありがとうございます。