長子の盲点

今日はオンラインで、アドラー心理学のことについて

熱い思いを聞かせてもらいました。

また別の勉強会の仲間たちの熱い思いも、聞かせてもらいました。


(パセージの)メンバーさんたちがやけどしちゃうから、もうちょっと温度を下げなさい、

と野田先生に言われた私ですが、

私の熱さでもやけどしないレベルの熱い方たちと話し合うことができて、

たいへん嬉しく思います。

それぞれの目的があって、それぞれの能力を活かして、

より良い人間関係を築く社会を作っていこうとしている仲間たちです。




具体的には書かないのですが、

私は、すべてのルールは、無いに越したことはないと思っています。

でも必要な場面があるので、ルールが存在するならば、守られなくてはならないと思います。

悪法も法のうちです。

その悪いルールを変えるためには、正しい手順を踏まなければならないと思います。

どれだけルールが悪くても。

どれだけその個人の意見が素晴らしくても。

そして、ルールを変える手続きがまだ存在しないのならば、

まずはそのルールを変える手続きをどうするか、話し合わなければならないと思います。



個人の意見の良し悪しに目を奪われて、

そのルールの範囲内で話し合えることなのかどうか、

見誤っていることが多いのではないかと思っています。

ちょっと絶望的です。

みなさん良い意図です。

しかし「地獄への道は善意が敷き詰められている」のです。



個人の意見が、それまでに培われてきたより大きな組織のルールよりも良いものであると、

私は無邪気に信じることができません。

いくらかの改善に寄与できるかもしれないけれど、

個人意見はもっと様々な視点から話し合いを重ねて、

多くの方が納得してから採用されるべきだと思います。

これは私が長子だから余計にそう思うのかもしれませんが…。


長子は自分が公正で公平な場を作れると信じて、不公平を作り出す。

末子は公正や公平の存在を疑い、不公平だと言い募ることで不公平を作り出す。

長子はルールをルールと気づかず無視をする。

末子はルールをルールと気づいて意図的に破る。

そんな違いがある気がしています。

でも、どちらの立場についても、

そんなに個人は賢くないでしょう。

いつもいつも正しくはおれないでしょう。

それに、そんなに個人と個人の間に違いはないでしょう。



人を動かすことを目的にした時点で、アドラー心理学でなくなると思います。

出発点はいつも、「私にはみんなのために何ができるか」です。

そして「ルールの中において」ということが、

私は無意識的に前提としていることに気づきました。

ルールが蔑ろにされている時点で陰性感情を抱いて動揺する、

これもまた大変長子的なのでしょう…。