アルケミスト

今日はオンライン事例検討会だった。

 

やっぱり仲間たちと学び合うことは本当にありがたい。

自分ひとりの思いつく可能性を超えて、新しい世界を見させてくれる。

今日学んだことは、「推量(ゲッシング)」。

これを鍛えなければ、と思う。

 

鍛える方法は、実践、失敗、そしてまた実践という道もある。

それと並行して、アドラーの著作や野田先生の論文から学び取るという道もある。

今は難しいけれど、講座に出て、先生方先輩方から朱入れをしていただくという道もある。

どの道も険しいが、私はそうやって一歩ずつ登っていくことが好きだ。

同じような道を歩いているようで、

景色はどんどん変わっていく。

見える地平が広がっていく。

そしていつか、先生方が眺望しておられるものを見てみたいと思っている。

そんな風に思いながら、一緒に険しい道を登っていく仲間がいることを

本当に幸せに思う。

 

 

 

今日は偶然に偶然と偶然が重なって、

お会いしたかった方とばったり出会った。

こういうことがあるから、私は小さなこの町が好きだ。

ご相談したかったことを、ゆっくりお話しする約束も取り付けることができた。

まだ内容は秘密。

日本アドラー心理学会総会のオンラインシンポジウムでその内容がわかります。

 総会の参加申し込みは9月30日が締め切りなのでお気をつけください。

 学会に入会されていない方は、まず日本アドラー心理学会に入会する必要があります。詳しくは日本アドラー心理学会HPをご覧ください。)

 

 

私が自分にできることをひとつずつ、

自分のタスクだと愛おしんで取り組んでいると、

私にタスクを与える世界は、その道はきっと正しいよと、何らかのサインを送ってくれる。

今日はそのサインが3つほどあった。

私が何を言っているかわからないかもしれないけれど、

私はそんな魔術の世界観で生きてみるのもいいなと思っているので、

時々この考え方を採用する。

私はパウロ・コエーリョの『アルケミスト』という本が大好きだ。

あの本に書かれていることを、私は今、初めて読んだ中学1年生のときよりも、

もっと、真実として感じている。

 

世界はもっと美しいと思う。

私がその美しさに気づいていないだけ。

私の思考も、感情も、本当は私の外側にある。

私はその思考にも感情にもとらわれずに、

世界を感じることができる瞬間もあると、

信じたい。

 

 

心を律する

今日は、ヘルタ・オーグラー著、西川好夫訳『アドラー心理学入門』を読みました。

1977年発行です。

アドラーの直接の弟子が書いた、アドラーの人となりと理論についての本です。

未読の方はぜひ読んでみてください。

たいへん面白く、わかりやすいです。

ただし、生活様式はライフスタイルのことだし、ちょいちょい気になる訳があります。

訳者は主にフロイト派の心理学を学んだ方なので、

専門用語等については違和感がありますが仕方がありません。



訳者は『フロイト心理学入門』も訳されています。

「ところが、この立場の提唱者としてフロイトの存在があまりに大きいために、精神分析学イコール深層心理学と考える人もないではないが、それは贔屓の引き倒しで、深層心理学といえば、少なくともアドラーの個人心理学とユングの分析心理学を含めるのがふつうである。(中略)

それにしても、わが国では、フロイトユングについては、汗牛充棟といってはオーバーかもしれないが、とにかく大量の翻訳や紹介があるにもかかわらず、アドラーについては、どういうわけか、翻訳も解説も実に微々たるものである。

しかし、こういう状況は深層心理学を学ぼうとする者にとって不都合である。

学説に対する賛否は別として、アドラーにも然るべき座が与えられねばならないと私はかねてから考えていたが、

幸いにも、清水公文堂から、C・S・ホールの『フロイト心理学入門』(拙訳)と『ユング心理学入門』(岸田秀訳)とが出ているので、これに『アドラー心理学入門』を加えて、深層心理学へ誘う三部作を考えた次第である。」

(P326訳者あとがきより引用)


異なる立場であっても、より広い視野で人々のことを考えて、

このような仕事をしてくださった方がいることに感動し、ありがたく思います。

本を作るというのは、労力の割に見合うことの少ない仕事だと思うのだけれど、

後世のために行う尊い仕事だと思います。



私は賢くなりたいと思います。

今起こっている出来事を、感情的にならずに理性的に捉えたいと望みます。

日々、理性的であろうとすることが難しいことが起きています。

私たちが今選ぼうとする道が、

アドラー心理学の将来にとってどのような影響を与えるのか、

私は恐ろしくなります。


けれど、誰も私から大切なものを奪うことはできないのです。

私は論理の力を磨いて、

相手を貶めるためではなく、

相手も私も、他のあらゆる立場の方も含めた人々みんなのために、

言葉を使っていこうと思います。


だから、私が誰かを打ち負かしたいと思うとき、

私はまず黙ろうと思います。

そして話し合える余地を見つけたいと思います。

言葉は、相手と繋がるために使うべきです。

感情的になっていては、話し合うことができません。

これはパセージテキストにも書いてあることです。


私たちと相手たちになったとき、

アドラー心理学の実践は、より難しくなると感じています。

でもそれができなければ、有資格者として胸を張っていられないと思います。




鏡像

今日も1日本を読んでいた。

文章は、書く人の心を表してしまうと思う。

 

 

アドラーと野田先生の守備範囲の広さと芸の凄さに、

今更ながら気づいて、愕然としていた。

どうやって後世に残していくのか、継承していくのか、

とても私の手には負えないと思っていた。

すべきことではあるけれど、私にはできないんじゃないかと。

 

私のその心許なさと同じような気持ちを、仲間が書いているのを読んで、

とても嬉しく思った。

私たちは偉人ではない。とてもとても小さな存在だと思う。

だから力を合わせて共に進んでいくしかない。

同じ覚悟を持って目標に向かう仲間がいるなら、

この灯火は消えないと、信じようと思う。

 

 

まがい物アドラーが世の中には蔓延している。

それだけでなく、希釈されたアドラーも広まっている。

人々は口当たりの良いものを好む。

アドラーの思想は厳しいものだ。自己欺瞞を許さない。

決して一般受けするようなものじゃない。

だからといって、その厳しさをマイルドにしたものが

良いものであるとは、私には思えない。

 

そのあたりの微妙なところを、彼はとても上手にとらえて言葉にしてくれた。

日本アドラー心理学会で学ぶ私たちはみんな野田先生の系統ではあるが、

野田先生に師事していた時期によって、系統が異なる、と。

 

私にとっての正しさと、他の人にとっての正しさが異なるとき、

競合的にならずにそのことを認め、

競合的にならずにその人々と付き合うことがとても難しい。

歩み寄る必要もないし、理解し合う必要もない。

だけど相手を否定することもなく、自分の意見を曲げることもなく、

協力すべきときは協力する。

私にそんなことができるんだろうか、と思っていた。

でも、まずは私が、相手を信じてみることから始まる。

彼の文章を読んで、また自分のすべきことに気づいてしまった。

 

アドラーの弟子筋であるシャルマンとモザクも、とても仲が悪かったそうだ。

お互いに激しくやり合っていたそうだけど、

お互いにアドラー心理学であることは認め合っていたそうだ。

 

 

 

私には彼のような生真面目さがない。

行動力もない。

師匠に対する信奉心が、そこまでない。

タフな努力の人だと思う。

私はそういう彼を自分の鏡像のように思い、見習おうと思っている。

私は直感を信じるし、

ひ弱な怠け者だ。

師匠に対しても先輩に対しても、批判的で生意気だ。

これらは、あまり劣等感を感じずに書いている。

そういう私の活かし方が、必ずあるだろうと思っているから。

私たちは違うから、お互いの良さをお互いが取り入れて、

より成長できるのだと思うから。

 

 

彼だけでなく、アドラーネットの投稿や、他の方々のブログも、

時折交わすメールのやりとりも、

仲間の文章は私に大いなる刺激を与えてくれる。

とても大きな勇気を与えてくれる。

私が一人考えていることは、そのままでは何の役にも立たないけれど、

こうして形を与えることによって、他の人に伝えることができる。

そして他の方の考えを知ることによって、他の方の行動を知ることによって、

私はこの世界に組み込まれていることが実感できて、

仲間たちがそれぞれの現実を一生懸命生きていることを実感できる。

 

私にできることをしていこう。

小さなことしかできないけれど、そのひとつひとつを重ねていけば、

仲間のひとつひとつと合わせていけば、

いつか偉大さに近づけるかもしれない。

 

 

偉大なものに触れる

今日は絶対的休日でした。

ドイツ圏の歴史や経済や職人芸のことについて本を色々読んでいます。

 

専門書を読むのは疲れるので、息抜きに楽しそうなものも読んでいます。

『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を読み始めたら、めちゃくちゃ面白くて、

すっかりはまり込んでしまいました。

 

良い物語を読みなさいと野田先生から言われました。

一人一人の人物の目を通した物語と、

ゲーテの作る全体の物語の筋書きとが、

近景と遠景と視点を切り替えながら、私をとらえて離しません。

縦糸と横糸のように、無駄なく見事に織られているんだと、

そういう風にしてはじめて小説を眺めることができました。

 

一人一人の人物が、まるで本当に生きている人物であるかのように、

私の頭がとらえている人間よりも、ずっと人間らしく思えました。

恋愛も、親子の葛藤も愛情も、友情も、何もわかっていないのかもしれない、

私はひじょうに世間知らずで、人間知も知らずに、

幼いままで生きているようだと感じました。

 

良い物語を読むことの必要がわかりました。

アドラーは自分の心理学を、「人間知の心理学」と呼びました。

ゲーテに学び、人間として成長したいと思います。

 

 

焼き林檎の誕生日ケーキ

今日は1日お母さん業の日だった。

次男のお誕生日だったので、昼はオムライス、夜はハンバーグという

私にとってはかなり手間のかかるリクエストメニューを作るミッションと、

幼稚園の納涼祭がコロナ対策のため時間差で開催のため、

番役と子どもたちを連れてのお客さん役とで、2回幼稚園に行くというミッションとが重なり、

けっこうなハードスケジュールだった。

 

具沢山の肉と野菜の味噌汁どーん!だったら、3食それで間に合うので、

普段の私の手抜き加減はたいへん効率的だと思った。

そして3食(ひどければ5食ぐらい)同じ食事が続いても、

文句も言わずに食べてくれる家族に感謝した。

 

 

数日前、次男は頂き物のお菓子を食べて、急に唇が腫れて、

アレルギー反応が出てしまったので、あわてて病院に連れて行った。

小さい頃は牛乳のアレルギーがあったのだけど、検査して、もう大丈夫といわれていた。

とはいえ、普段の気管支喘息の予防の薬が終わったところだったので、

疲れが出てくるとアレルギー反応が出てしまうのだそうだ。

外は暑いし、冷房も体がだるくなりがちだし、確かに昼寝しがちだった。

ありがたいことに、いつもの薬を飲んだらすぐに治まった。

それで、いつもの薬を飲み続けることと、

生物やアクの強い食べ物は気をつけてくださいと言われて、ほっとして帰宅した。

しかし、誕生日ケーキのことが問題になった。

 

ずっと前から、生クリームの乗ったケーキを注文してくれと頼まれていたのだけど、

今、生クリームを食べるのはちょっと賛成できないなあとお伝えした。

「お誕生日ケーキ食べられないのか…」としょんぼりした次男に、

「いや、生クリームとかを使っていない、火の通ったケーキなら大丈夫だよ!」

と長男が言ってくれた。

「チーズケーキとか、ガトーショコラとかなら大丈夫じゃない?」と。

確かに、大丈夫でしょう。しっかり焼いてあるから。

でも次男はすねてしまっていて、「そんなのはいらない!」とソファーに突っ伏した。

「じゃあ、お兄ちゃんがケーキ焼いてあげるよ!」と長男。

がばっと跳ね起きた次男、「それなら食べる!」。

「じゃあどんなのがいいかな?」

「フルーツケーキ!」

「でも、生物やめといた方がいいんだよね。」

「じゃあいらないよ!」

「…焼き林檎は?」

「焼き林檎のケーキ!」

「ちょっと待ってね、焼き林檎の作り方見てみるから…。

 あー、これだったら作れないな。」

「じゃあもういい。」

「待って、別のレシピあったはずだから。

 あった!これなら、ケーキ焼いて、それから焼き林檎焼いて、

 後でケーキに乗せたらいいと思うよ。」

「じゃあ作って。」

「いいよ!」

「ありがと!」

長男4年生、すねる弟を見事勇気づけてくれた。

 

 

そして今日、長男は昼食のオムライスのふわふわの卵を作ってくれて、

次男をたいへん喜ばせた。

昼食後、私が店番に出かけるときにケーキを焼き始めた。

私が帰宅すると、ケーキを冷まし始めていて、

今から焼き林檎を作りまーす、と言って作り始めた。

リンゴを切っている長男の横で、私はハンバーグの下ごしらえをした。

 

 

3人で納涼祭に出かけた。

暑かったけど、久しぶりにたくさんのお友だちや先生方に会えて嬉しそうな次男。

長男はずっと次男について、保護者をしていた。

次はどうしたい?とか、あれで遊んでみる?とか、長男が尋ねて、

次男は、次はあれだー!とか、それはしない、こっちに行く!と応えて、

いいよー!と、長男はずーっと付き添っていた。

 

家ではいつも、

「ちがうよ、こうだよ!お兄ちゃんに貸してごらん!ちょっとでいいから!そうじゃないよ、ほら!」

「やめてー、もう、返してよ、やだーやだー!」

って声ばっかりを聞いているように思っていたけど、

どうやら彼らはうまくやっているらしい。

横暴なお兄ちゃんと虐げられる弟物語のときもあれば、

優しいお兄ちゃんとわがまま放題の弟物語のときもあるんだ。

そこに私の入る余地はない。

ああそれから、怠け者のお兄ちゃんと働き者の弟物語もある。

 

 

夫が迎えに来てくれて、みんなで帰宅して、

無事にハンバーグとケーキの用意もできて、

夫の買ってきてくれていたジンジャーエールで乾杯をした。

スープが次男のお口に合わなかったり、

ケーキの食感が不思議だったり、

ジンジャーエールが辛口すぎてむせたり、

完璧なディナーではなかったけど、

次男が生まれてきたことを喜ぶ気持ちがいっぱいの食卓だった。

 

おやすみを言ったとき、6歳おめでとうってもう一度言ったら、

とても誇らしげに、うん、ありがとうって次男が応えた。

大きくなるっていうことは嬉しいことだね。

 

もっとこうしたらいいのに、もうちょっとこれがなければいいのにって、

私の脳裏を色々な期待がよぎるけれど、

多分次男は次男なりに、自分で色々なことを学んで、自分の良い使い方に気づいていってくれるはず。

私は次男の良いところをたくさん伝えていきたいと思う。

アレルギーのことをちゃんと理解して、すぐに私の指示に従ってくれて、

その後も感情的にならずに自分の食べたいものを我慢できたのは、

素晴らしいことだと思う。

彼はものすごいわがままを発揮することがあるけれど、

きちんと場をわきまえることができていると思う。

 

 

私は、長男がこんな風に成長するとは想像できなかった。

こちらの期待を求めても、関係は悪化した。彼は不幸になっていった。

だからそういう働きかけをやめて、

努めて長男の良いところをたくさん伝えてきたことが、

多分長男の本来の良さを育てたのかなと思う。

それで、自分の良い使い方を、

家族のためにみんなのために、どうやって自分を役立てられるのかを、

自分で考えて行動できるようになったんだと思う。

手先が器用で手間をおしまず、創意工夫にあふれる長男にとって、

お料理というのは素晴らしいツールだね。

今回、次男を本当に勇気づけてくれた。とてもとてもありがたかった。

 

 

みんなにとって、お互いの成長を実感できた日だった。

私たちが4人家族になったお祝いの日だ。

 

贈り物

今日はカウンセリングと野田俊作ライブラリのオンライン勉強会でした。

 

今日のカウンセリングでは、

前回からの引き続きのエピソード分析だったのですが、

クライアントさんの私的感覚を使って、

素敵な協力的な目標と代替案が見つかったなあと思います。

どんなことができるかなあ〜と、クライアントさんが

とてもわくわくしながら、楽しそうに考えておられて、

私も、カウンセリングのこの時間を楽しいと思えました。

 

それは、クライアントさんが、相手役さんとより良い関係を作ってみたいと

心から思っておられて、すっかり陰性感情がなくなってしまっていて、

相手役さんの良い意図に気づかれて、感謝しておられて、

私に何ができるんだろう、何かできるなやらやってみたいって、

そういう風に構えが変わってしまっていたからだと思います。

代替案を考えるとき、

どんなプレゼントを贈ったら喜んでもらえるかな、と考えているようなお顔でした。

なんて美しい方なんだろうと思いました。

 

 

自分の持っている価値観を、どうやって相手のために使えるのか、

それを考えることがカウンセリングの醍醐味だと思いました。

自分の良いところに気づいて、自分の使い道を知ること。

そうすれば、勇気を持って行動することができます。

 

すべて、もともとクライアントさんが持っていたものなのです。

そこに、私は名前をつけるお手伝いをしただけ。

無意識から意識へと橋渡しをしただけです。

アドラー心理学では、フロイト派のように、

無意識をまがまがしいものとはとらえません。

意識の一部が無意識を抑圧しているとか、無意識が意識を抑圧しているだとかいうことも考えません。

無意識と意識とが協働していて、個人の中に葛藤はないと考えます。

自分が気づかずにいた自分の良いところに、長所に、有用な可能性に、

名前をつけて意識にのぼらせて、手に入れて、使えるようにします。

 

その人が持っている素敵なものを、一緒に愛でられることを幸せに思います。

その素敵なものを、どうやって使えるか、一緒に考えていけることを幸せに思います。

その使い方を見つけて、相手のために実践してみたいと言ってくださることが

私はとても嬉しいです。

この方は幸せになる方法を手に入れたんだなって、今日は感じました。

そして、物語がまったく変わってしまった。そう感じられました。

 

 

代替案を考えるとき、クライアントさんが苦しんでいることがあります。

それは私の下手さのせいなのか、それ以外にも何かあるのか、

今の私にはわかりません。

それがよくないことなのかどうかも、わかりません。

でも、相手のために何かしてみたいと心から思えたとき、

それが自分にとってはたいへんなことであっても、引き受けようと決心するとき、

その瞬間に感動します。

苦しくなく決断できる場合もあれば、

その決断がとても苦しい場合もあるだろうと思います。

決断は、何かを捨てることです。

相手のために自分のこだわっている何かを捨てることです。

 私にはクライアントさんを本当に理解することはできないけれど、

クライアントさんの決断を、どんな小さなことであっても、その決断を

尊いものだと思い、大切にしたいです。

 

 

クライアントさんの良いところを、良い使い道を探していく、

カウンセリングはそういう楽しいものであると、

今まで忘れていたことを思い出しました。

私はまだ、問題を取り除こうとしていたのでしょう。

だから私がクライアントさんの物語を悲劇的にとらえてしまっていたのかもしれません。

だけど、クライアントさんはどんな状況でも、美しい物語を生きていくことができるはずです。

問題はもしかすると、そのまま解決できないまま、そこにあるかもしれないけれど、

そうではあっても、クライアントさんは相手のために何かできることがあるはずです。

そのことを知り、そうやって自分をお役に立てるように生きていくことは、

幸せな人生だと思います。

どうしようもない問題を抱えたまま、人々のために自分にできることをしていく

美しい物語を、生きていくことができるはずです。

それは、悲劇ではないと思います。

 

そういうことを知って、感じてもらえたら、

それがカウンセラーからの贈り物として届けられたらいいなと思います。

 

 

 

思想家

今、アドラーの生きた時代以前のドイツ圏の経済社会構造について本を読んでいる。

今からやり始めたのでは短期目標にはおそらく間に合わないのだけど、

中期目標に向かって行動を始めた。

 

アドラーの思想を、思想史の中にきちんと置いて見てみたいと思っている。

それを、野田先生は精神医学史、臨床心理学史の中に置いて、

様々な論文を書いてくださった。

それに加えてもうひとつ、社会構造とか実際の人々の生活というものの中にアドラーを置いて、見てみたい。

 

アドラーは偉大な人だった。

偉大すぎて、歴史の先を予見していた。

(世界で始めて児童相談所を作ったのもアドラーである。)

だけど、社会や歴史から切り離されてアドラーの思想が生まれたわけではない。

アドラーの生きた時代を知ることで、

現代日本でその思想をどう活かしていけるのか、ひとつの展望が見えるのではないかと思う。

 

もともと、私は農学の思想について大学で考えていた。

結局ほんの入り口にも立てないまま、

大学院に進むことを、私的な生活を大事にすることに決めて、やめたのだった。

その選択は、間違ってはいなかったと思う。

ずいぶん長く未練があったことは確かだけど。

あのとき大学院に行かないことを決めて、たくさんの本を読んで、

子どもを授かって、子育てに悩んで、

そういうことがなければ、アドラー心理学を学ぼうとは思えなかったから。

そして、あのときに決断していたから、私は野田先生の弟子になれたから。

 

私がアドラー心理学を学ぼうと、これを生涯学んでいこうと決めたのは、

臨床家になりたくてそう決めたのではなかった。

アドラーの思想だけが、近代思想への有効なアンチテーゼだと思ったからだ。

人が幸せになるためには、アドラーの理論を学び、実践することだけでいいと思ったからだ。

私の手にしたい思想探しの旅が、目標にたどり着いたからだ。

 

学ぶその過程で、実践というものが、私一人でできるものではないことがわかり、

学びを伝えてもらい、学びを伝えていくことの中で実践できるものだと思った。

仲間を増やさなければ実践できないと、学べないとわかり、

まずは仲間を増やすためにパセージリーダーにならなければと思った。

それから、よりアドラー心理学を実践できるように、カウンセリングの勉強もした。

この頃にはもう、とにかく修行だと思ってやれることは全部やろうと、走り始めていたと思う。

 

今、幸せなことにカウンセリングをさせていただいて、

パセージもさせていただいている。

でも私は、よい治療者になりたいという目標もあるけれど、

よい治療者になるだけが私の目標でなかったことを思い出した。

私は、アドラーの思想を深く理解したかったのだ。

今、理論は概ね理解している。

だけど、アドラーの思想を感情的にではなく、直感的にではなく、

論理的に、きちんと理解したい。

そうすることで、アドラー心理学の理論も正確に理解することができるだろうと思う。

 

今、巷で見聞きするアドラーという名のものは、

ほとんどがアドラーの思想に基づくアドラー心理学ではない。

では何がアドラー心理学なの?という問いに、

私なりに誠実に応えてみたいと思う。

時間がかかってしまうかもしれないけれど、

イムリミットは迫っている。

やれるだけのことをやってみよう。