鏡像

今日も1日本を読んでいた。

文章は、書く人の心を表してしまうと思う。

 

 

アドラーと野田先生の守備範囲の広さと芸の凄さに、

今更ながら気づいて、愕然としていた。

どうやって後世に残していくのか、継承していくのか、

とても私の手には負えないと思っていた。

すべきことではあるけれど、私にはできないんじゃないかと。

 

私のその心許なさと同じような気持ちを、仲間が書いているのを読んで、

とても嬉しく思った。

私たちは偉人ではない。とてもとても小さな存在だと思う。

だから力を合わせて共に進んでいくしかない。

同じ覚悟を持って目標に向かう仲間がいるなら、

この灯火は消えないと、信じようと思う。

 

 

まがい物アドラーが世の中には蔓延している。

それだけでなく、希釈されたアドラーも広まっている。

人々は口当たりの良いものを好む。

アドラーの思想は厳しいものだ。自己欺瞞を許さない。

決して一般受けするようなものじゃない。

だからといって、その厳しさをマイルドにしたものが

良いものであるとは、私には思えない。

 

そのあたりの微妙なところを、彼はとても上手にとらえて言葉にしてくれた。

日本アドラー心理学会で学ぶ私たちはみんな野田先生の系統ではあるが、

野田先生に師事していた時期によって、系統が異なる、と。

 

私にとっての正しさと、他の人にとっての正しさが異なるとき、

競合的にならずにそのことを認め、

競合的にならずにその人々と付き合うことがとても難しい。

歩み寄る必要もないし、理解し合う必要もない。

だけど相手を否定することもなく、自分の意見を曲げることもなく、

協力すべきときは協力する。

私にそんなことができるんだろうか、と思っていた。

でも、まずは私が、相手を信じてみることから始まる。

彼の文章を読んで、また自分のすべきことに気づいてしまった。

 

アドラーの弟子筋であるシャルマンとモザクも、とても仲が悪かったそうだ。

お互いに激しくやり合っていたそうだけど、

お互いにアドラー心理学であることは認め合っていたそうだ。

 

 

 

私には彼のような生真面目さがない。

行動力もない。

師匠に対する信奉心が、そこまでない。

タフな努力の人だと思う。

私はそういう彼を自分の鏡像のように思い、見習おうと思っている。

私は直感を信じるし、

ひ弱な怠け者だ。

師匠に対しても先輩に対しても、批判的で生意気だ。

これらは、あまり劣等感を感じずに書いている。

そういう私の活かし方が、必ずあるだろうと思っているから。

私たちは違うから、お互いの良さをお互いが取り入れて、

より成長できるのだと思うから。

 

 

彼だけでなく、アドラーネットの投稿や、他の方々のブログも、

時折交わすメールのやりとりも、

仲間の文章は私に大いなる刺激を与えてくれる。

とても大きな勇気を与えてくれる。

私が一人考えていることは、そのままでは何の役にも立たないけれど、

こうして形を与えることによって、他の人に伝えることができる。

そして他の方の考えを知ることによって、他の方の行動を知ることによって、

私はこの世界に組み込まれていることが実感できて、

仲間たちがそれぞれの現実を一生懸命生きていることを実感できる。

 

私にできることをしていこう。

小さなことしかできないけれど、そのひとつひとつを重ねていけば、

仲間のひとつひとつと合わせていけば、

いつか偉大さに近づけるかもしれない。