音楽によって気分が左右される。
それを使って、音楽によって気分をコントロールできるようになった。
どうしても気分が落ち込む時は、最近知ったCalmeraに頼っている。
書けない原稿も、乗り気にならない出勤準備もお弁当作りも、
どうしてだったんだろうと思うぐらい、CalmeraをBGMにしていると体が動いて、何気なく終わってしまう。
このバンドも、最近好きなインストゥルメンタルバンドのひとつ。
YouTubeは私の好みを推測して、色々勧めてくれるからありがたい。
ドラム、ギター、ベース、キーボードに、トランペット、サックス、トロンボーン。
カッコいいのだけど、どこか懐かしい。
私の父のバンドも演奏していたニューオーリンズジャズなど、どこかで聴いたことのあるようなフレーズが、所々聴こえてくる。
昭和の歌謡曲の雰囲気も、少しある。
相当カッコいいオリジナルの曲なのだけど、でもちょっとだけ古臭くてダサいところがある。
きっと関西弁のイントネーションなのだろう。ベタっていうのかな。
歌詞はないから、何と言ったらいいのかわからないが、とにかくこのバンドのフレージングは関西弁、というか大阪弁なのだ。
(調べてみたら、今年5月で活動休止しているとのこと。残念だ。)
変えられないものと、変えられるものがある。
例えば私が音に過敏であること、関西弁ネイティブであること、気分の波が激しいことなどは、変えられない。
でも、好きな音楽を見つけて気分を明るくする工夫は、私の変えられる部分だ。
明るい気分で笑顔で出勤すると、利用者さんたちも子どもたちも職員さんたちも、私と関わることを楽しんでくださる…ような気がしている。
脳内でCalmeraを流していると、体が軽やかになり、気をつけないと鼻歌を歌っていまいそうになるぐらい、自動的に私の仕事は進んでいく。
深く考えずに様々なことがこなせる。
利用者さんの愚痴を笑顔で聴き続けられる。
泣き止まない赤ちゃんを抱っこして、鼻歌を歌って落ち着かせられる。
施設内の掃除も鼻歌を歌いながら、気づいたら終わっている。
宿題しないもんっていう子に、そうなんだね、って笑顔で返事できる。
そうしたら、しばらくして「やっぱりやる。Mさんこっち来て。見てて。」と呼んでくれた。
「はいはい。」
「あのな、今日は漢ドと算数のプリント。Mさん、プリント読んどいて。」
プリントの答えを考えとけってこと?相変わらず、私は奴隷扱いだな。
でも、いい。喜んで奴隷をさせていただこう。
まず私がきっちりと奴隷をしたら、私たちは対等で平等な友だちになれるって信じているから。
だってこの前、夜の21時ぐらいに1人で事務室に来た時、私たちはとっても平等な位置にいる仲間だったもの。
「Mさん、今ひとり?」
「うん、そうだよ。」
「あー、じゃあ出れないんだね。」
「うん、今は出れないわ。どうしたの?」
「あのな、外の自動販売機に行きたいけ、ついてきて欲しかったんだけどな、あのな、怖いから、そこの窓開けててくれる?」
こちらの、事務室を空けてはいけないという事情をよくわかってくれていた。
とても嬉しかった。
「ついて行けなくてごめんね。わかってくれてありがとう。窓開けて見ててあげるね。あと、Sちゃん、いいもの貸してあげる。」
「なあに?」
「はい、どうぞ!」明るい懐中電灯を手渡した。
「わあ!ありがとう!行ってくる!」
確かに事務室の外、花壇の前の通路は電灯がなくて暗い。
事務室の窓から身を乗り出して、Sちゃんに話しかけた。
「見える?」
「うん、見える見える。」
ジュースを買って、「ありがと」と可愛い笑顔で懐中電灯を返してくれた。
エレベーターに乗って、また先日のように見えなくなるまで手を振り合った。
ものすごく荒ぶって大変なこともあるけれど、彼女はとても賢くて優しくて、お話が上手で、協力してくれる人だ。
私たちは小さなことでもこうやって協力し合うことができる。
相手のために手を差し出し合って手を繋ぐことって、こんなにあたたかい気持ちになるんだなって、あの夜、Sちゃんのおかげで感じられた。
Sちゃんは宿題と一緒に新しいサメのぬいぐるみを持ってきていた。
「ねえ、さっきこの子、なんか声出してなかった?」
「そうだで。こうするの!」Sちゃんがぬいぐるみの口をパクパクさせると、
「Baby, Shark la la la la la…♪」と歌い出した。
「これでな、英語覚えれるんだで。」
ヘえ〜と言いながら、しばらくぬいぐるみで遊んだ。
宿題をさせるということよりも、私は今、この子と一緒にいることを楽しもうって思えていた。そのことの方が、ずっと大切なように思えていた。
するとSちゃんは漢ドとノートを広げて、無茶苦茶な英語の歌を気持ちよさそうに歌いながら、適当な漢字を書き始めた。
ほんっとうに、適当すぎるので、笑ってしまった。
「言」は口を書いて、上に横棒を積み上げていく。
「園」は、囲いをぐるっと書いた後、中身が半分外に飛び出ている。というか、囲いの外に足が突き出ている。
「Sちゃん、ちょっとこれ、あまりに適当すぎない? 笑」
「いいの〜」
尚も無茶苦茶な歌を歌いながら、無茶苦茶な字を書いていく。
でも、ちゃんとわかっている様子。漢字は読めているし、もっと丁寧に書くこともできる。
今日は、これぞやっつけ仕事というような適当さで、やりたいみたいだった。
宿題に取り組もうというところは、素晴らしいところだ。
そして、私の発言に怒り出さないところも、素晴らしいところだ。
自分が適当にやっているということもよくわかっている。
私は少し考えた。
普通の大人は、ちゃんと書きなさいって言うよね。真面目にやりなさいって言うよね。
でもそんなことを言って、書き直すようなSちゃんではない。
私はSちゃんの良いところを見ていたい。それを伝えたい。
今の私には、それができる気がした。
「でーきたっ♪」
「わあ、早いね!本当はSちゃんがもっと丁寧に書けるの知ってるけど、これでいいの?」
「うん、いいの!」
「そっか 笑」
「うん。次はプリント。」
わからなくなったら質問してくれる。理解してくれた。
でも計算間違いに気付いても、「いいの!」と言って、訂正しない。
「書いてある答えは違うけど、私はSちゃんがちゃんとわかってることわかったよ。ちゃんとわかっているのに、もったいないな。」と言うと、
嬉しそうに笑って、「でもいいの!」と言った。
「そっか。まあ、丸がもらえなくても、Sちゃんがわかったんだから、いっか。」
「うん、そう、そう。」
嬉しそうに、また無茶苦茶な歌を歌いながら、最後まで解き終わった。
「できた♪」
「全部できたね。適当すぎるんじゃないとか、言いたいことはありますが、まあ、私が言ったところで聞き入れてもらえそうにないしね…」
Sちゃんが手を止めて私をじっと見る。
「お疲れさま。がんばったね。今日の宿題は終わりかな?」
「うん、終わり!」
ちょっと驚いて目を見張って、嬉しそうに机の上を片付け始めた。
この子は手を抜くのが上手なのだ。やりたいことは丁寧にできるし、集中力もとてもある。
やりたくないこと、でもすべきことを、今日はSちゃんなりにがんばったと、それは本当にそうだと思う。
普段はやりたくないことを放ったらかしにしがちなことを思うと、その取り組みがどれほど適当であったとしても、これは素晴らしいことだって、思えた。
そんな風に思えるようになった私の変化に、私は驚いた。
甘くなったのだろうか。
いや、理想は捨てていない。
スモールステップの刻み方が、細かくなったのだろう。
小さな小さな変化に気づき、喜べるようになったのだろう。
しかしこの私の変化が、Sちゃんにもたらしたものは大きいと思う。
私はもう奴隷ではなくなっていたから。
今日も「Mさん、来て。」と言う第一声は相変わらず奴隷への命令に聞こえたけれど、
「お部屋まで一緒に来てくれる?」と、お願いしてくれた。
今日は私がTシャツじゃなくてブラウスを着ていることに気付いてくれて、
「Mさん、今日はどこかに行ってたの?出張とか?」
と、大人の女子っぽいおしゃべりをしてくれた。
「お洋服のこととか、髪型のこととか、すぐに気付いてくれるね。ありがと。」
と、お礼を言った。
「うん」と、すまし顔で応えてくれた。
深く考えなければならないこともある。
でも、明るい音楽をBGMにして、頭のどこかを鈍らせて、気分良く、調子よく、
みんなの良いところをたくさん見つけて言葉にしていくこと、
いいんじゃないかなと思う。
やっぱり、私はトランペットが好きだ。
バカ明るく突き抜けた音色。
どこまでも響く、華やかな音。
皆と溶け合って皆を包み込む、柔らかく豊かな音。
私の理想は、多分それなんだろう。
Calmeraを聴いていると、カッコいいね!と、次男が気に入ってくれた。
派手なパフォーマンス好きの次男は、どんな楽器を選ぶのかな。
みんなを楽しませたいという次男の素晴らしいところも、見えてきた。
誰もが、それぞれに素晴らしいところをたくさんたくさん持っている。
そのそれぞれの良さを、重ねて響かせ合えたらいいなと思う。音楽のように。
同時に、同じ空間で、それぞれ違った楽譜を違った楽器で演奏するからこそ、素晴らしい音楽が完成する。
私たちはそれぞれに違うから、素晴らしい音楽を作っていけるんだ。
だから私の尺度にはまらない全ての人たちとも、私はきっと場面場面で協力することができるはずだ。
この職場で、私は自分の良さを全然生かせないな、仕方ない、修行なのだからと思っていたけれど、
やっぱり、私はトランペットを持っていようと思う。
音楽は生きるための必需品ではないだろう。
でも、音楽があれば生きていけるだろう。
ただ明るいだけではない、様々な色彩の音楽で、利用者さんたち子どもたちの長い人生のうちのこの瞬間を、彩れたらいい。
いつかこの日々を、懐かしく、あたたかく思い出してもらえたらいい。
今晩、退所して数年になる方から電話がかかってきていた。
ベテランの職員さんが優しく、笑ったり慰めたり、励ましたりしながら話を聴いておられた。
その職員さんも知らない退所者さんだったそうだけど、
すぐにPCで退所者情報のページを開いて、確認しながら1時間近くも対応しておられて、
なかなかできることではないなと感動していた。
「疲れたわ〜。Mさんに電話取ってもらったらよかった〜」なんて笑っていたけれど、
私ではあんな風に対応できなかっただろうなと思って、そのように伝えた。
アフターフォローという支援の枠組みよりも、おそらくは外にあるだろうけれど、大切な仕事だ。
職員が入れ替わっていっても、ここで過ごしていたことを思い出して、時々、電話をかけてこられたり、遊びに来られたりする人々がいる。
ちょっと落ち込んだり困ったりして、誰かに話を聴いてほしい時に、思い出す場所。
「私たち」は、いつでもここに居るから。
そのことが、誰かに安らぎを与えられているのなら、誰かを支えているのなら、それはすごいことだなと思う。
「私」自身が大した役に立てなくても、「私たち」の役割は、きっと小さくはない。
そんな大きな物語の中で、生きてみようかなと思えた。
現場で起こることはなかなかに大変なことがあって、麻痺していそうな自分が嫌になったりもするけれど、
その麻痺ということを、私たちはどんな時でも明るい音楽を奏でられるんだという風に変えて、私はトランペットを吹いてみようと思う。