毎晩のようにオンライン勉強会が入っている。
毎日カウンセリングのことや野田先生の論文のことを学べている。
昨日から今日にかけて子どもたちが来てくれた。
その間も、アドラー心理学を学ぶ機会は減ることなく継続できている。
私は学び続ける環境を整えられたのだと思う。
明日もプチパセージだ。
初めて来てくださる方が数名いらっしゃる予定。
パセージ受講メンバーさんが、お知り合いをたくさん誘ってくださったのだ。
本当にありがたいことだと思う。
私が良いと思うことを、心から良いと思ってくださって、それを広めようとしてくださる方々がいる。
私は、私が良いと思うことを、同じように良いとか好きだと思ってくださる方々と、
その私たちが良いと思うことについて、ずっと語り合いながら学び合いながら生きていたいようだ。
ただし私の良いと思うことは、あまりメジャーではない。流行することもない。
だって資本主義的暴力にも、共産主義的暴力にも、反対する思想なんだもの。
私は自分の意見に、絶対に価値があると思っていた。
私の意見は正しいと思っていた。
今はそうは思わない。正しい場合もあるし正しくない場合もあるだろう。
ある面から見れば正しいかもしれないし、別の面から見れば正しくないかもしれない。
でも、正しい正しくないに関わらず、私の意見を表明しなければならないと思っていた。
その内容に意味があると思っていた。
でも最近、私は私が意見を言うことに意味がある、というのも思い込みなのかもしれないと思うようになった。
世間知らずで愚かな私にはわからないことが多すぎる。
私よりは広い視野で、適切な筋道で考えられる人たちがいるのなら、
その人たちに判断を任せるということも、私の選択肢に入れてみることにした。
その人たちを信頼してみようと思った。
任せるからには、その判断が結果としてうまくいかなかった場合、
その失敗の結末はもちろんきっちりと引き受ける。
それが、意見を表明しないで身を任せる者の責任の取り方だと思う。
もしも改善点に気づいたら、その時、より良い未来を作るために意見を述べようと思う。
私の意見に耳を傾けてくださる人がいるということも、ありがたいことだと思う。
賢くなりたいと思う。
けれど今私は、全く別の種類の賢さを身につけようとしているようにも思う。
とても停滞している。
わからないことばかりだ。
そして自分にお役に立てることが見当たらないことに、とても落ち込む。
任せることにも、とても勇気がいる。