手慣れない方法

今日は横になっている時間が長かった。

 

私は多分、内向的なので、人と接すると疲れていた。

今はずいぶん疲れなくなってきたけれど

人の話を聴くというのはエネルギーのいることだ。

自分の意見を語るというのは私にとってはあまりエネルギーがいらない。

これを内向的というのかどうかよくわからないけれど…

私の興味関心は、私の内側にあるという意味で、

私は外の世界に関心を向けることにあまり気が向かない、ということだ。

 

そういう私の自分本位さを、今様々なところで変えようと努めている。

本は、私が勝手に好きなように解釈して切り取って読める。

そして本はそのことについて文句を言わない。

気にくわない本ならば閉じておけばいい。

人の話を聴くというのは、本を読むのとは違って

自分の解釈が混じると困ったことになるから、

相手の立場で、相手の耳で聴かなければならない。

気にくわない意見も、耳に痛い意見も、私の体で受けなければいけない。

 

今私がしていることが役に立てるのかどうかは見えない。

だけど、今私は孤独ではないから、少し前に感じていた絶望はもう感じない。

 

ここ数日で心からわかったことは、私はあほだということだ。

自分が賢いと思い込むあほさ加減に、うんざりだ。

今まで私は人に相談することが滅多になかった。

相談するまでもないような些細なことか、

本当に行き詰まってどうしようもない大変なことか、

そのどちらかだけだった。

だって自分が正しくて賢いと思っていたから。

自分一人で考え抜く答えが一番良いものだと思っていたから。

そしてここ数日で、やっと、

他の方のご意見をお聴きし、ご相談するということができた。

傲慢な私にとっては、とても勇気のいることだった。

 

賢い方たちのご意見で、自分の見えていない世界が開けてきた。

そして優しい人たちのご意見で、自分の感じていない世界に触れられた。

願っていることはひとつにまとめることができるんじゃないだろうか。

戦う姿勢は見せない方がこの戦いには勝てるのかもしれない。

私の競合的な心が、相手の競合性を露わにする。

 

ひとつになろうという口当たりの良い理想を、私は掲げてみようと思う。

理屈じゃないという人々は多い。

そういう人々は、あたたかい情念で、善意を信じて動く。

 

皆を魅きつけるような協力的な心で、言葉で、

善意を表現してみようかと思う。

 

なんとなく嘘のようで嫌だったけど、

真実なんて誰も知れないのだから、

批判的な立場は本当に疎まれるのだから、

人に好かれる努力をしてみてもいいのかなと思った。

そうだ、私は面倒になると嫌われ役になろうとするのだった。

 

批判的な人の寛容さが、

寛容な人の鋭い批判が、

人の心をとらえるのではないだろうか。

私はあまりに正直すぎてまっすぐすぎて、不器用だ。

不器用ながらに、寛容な心を持ち、人に好かれるように行動してみようと思う。

そうしてからでないと、私の意見に耳を傾けてもらえない。

私が心を開かなければ。