今日は1日中子どもたちと戯れていた。
昼寝もたくさんした。のんびりとした夏休みである。
夫は午前中買い出しを手伝ってくれて、お昼過ぎに1人で自宅へ戻って行った。
もっとゆっくりしてはいかが、とみんな言ったけれど、
いいですいいです、と帰って行ってしまった。
夫も子どもたちの遊びにつき合ってくれたりと、
のんびりした時間を持てて良かったと思うけれど、
夫には自分のすべきことがたくさんあるのだろう。
そして多分彼は、お役目のない状態は居心地が良くないのだろう。
ほんとうは、一緒に居てくれるだけでいいのに。
コロナの関係で、今回のお盆は夫の実家への帰省をあきらめた。
夫にとって、大きな大きな決断だったと思う。
お互いの家族のことで、私たちはいつもすれ違う。
だけど、少しずつ感情的にならないようになってきている。
夫は思いを言葉にしない人だから、
そして夫が思いを言葉にするような人に変わることはないから、
こういう夫とどうやってお互いに心地よくつき合っていくか、考えなきゃいけない。
ありがたいことは、夫は私と私の家族に対して、
いつもいつも良い意図で、役に立てるように動こうとしてくれることだ。
夫は行動の人なんだ。
確かにぱっぱと身軽に動く。
というか、落ち着いてちょっとじっとしてって、私は以前よく思っていた。
もっともっとちょこまかと動く子どもたちと暮らすようになって、
あまり夫の多動が気にならなくなっただけだ。
そもそも私は動かない。
そして口だけはよく動く。
…そりゃあ、お互いにこれだけ性質が違っていれば、違うことを感じて違うことを考えて、違うことを心地よく思うだろう。
私たちは意外とうまくやってきたのかもしれない。
一致することが不思議なぐらい、私たちは育った環境も、年齢も、何もかも違う。
だけど2人でいることが心地よくて、
2人が心地よいと思う家を作って、
2人が良いと思うような家庭を作ろうとしてきた。
家族であることが当たり前になってしまっているけれど、
本当はそれは当たり前ではないよと、わかっていたい。
子どもを育てていると毎日忙しくて充実していて、バタバタと過ぎていくけれど、
こんな時期もやがて終わりが来てしまう。
家族は夫婦になったときに始まる。
子どもは家族のもとにやってきた仮住まいのお客さまなんです、と野田先生がおっしゃった。
家族の中心は夫婦です、とパセージテキストにも書いてある。
そうだった。
そして夫婦が年老いて、どちらもが亡くなったときに家族は終わるんだ、と。
年老いていく夫婦の生き方を、私は見せてもらっている。
まだ私には若さがあり、子どもたちは私を必要としてくれるほど小さい。
夫は働き盛りで忙しく、私は家の中で十分お役に立てている。
でもいつか私たちも老いて、子どもたちは巣立ち、
夫は退職し、私たちの生活は激変する。
そうなったとき、私たちがどうやって最後まで生きていくかということが、
最後の課題として私に降りかかってくる。
やがて、はっきりとした形ではお役に立てなくなっていくだろうことに、
夫はきっと落ち込みやすいタイプだろうと思う。
これだけみんなのためにと身軽に、気持ちよく働いてくれる人なのだから。
そういう夫を勇気づけて共に生きていくために、
私は、夫を尊敬し、夫を理解しなければと思う。
夫婦の形は様々だ。
今は忙しいけれど、忙しいことをよいことに、
私たち夫婦の生き方について目を逸らしてきたかもしれないと思った。
私たちは、お互いのことを思おうとしているのだから、
これから時間をかけて、すれ違っているところを考えていこうと思う。
それが足りなかったのは、多分私の方だったんだと思う。