増大するエントロピー

今日も休日気分でした。夜はベイトソンのオンライン勉強会でした。

 

 

長男はもうすぐ春休み。帰宅時間がとても早いです。

子どもたちが家にいる時間が増えてくると、そして私の仕事が増えてくると、

我が家のエントロピーは飛躍的に増大します。

 

塩の結晶を作りたいと、2週間ほどかけて作り上げた塩の結晶の入った

高濃度食塩水を床にぶちまけて、

またそれをすぐに拭いたりしないもんだから、床の上に塩田ができていたり…

お風呂の中にレゴの船が沈没していたり…

冷蔵庫の中には片栗粉で作ったスライムが冷やされています。いつまで鎮座しているのか…

空いたダンボール箱を求めて屋根裏を捜索したらしく、

お雛様の箱を工作に使おうとして、出した雛人形を次男がそーっと両手で運んでいた時は、

頼むから屋根裏の中身の入ってる箱は工作に使わないで!!と言いました。

 

 

片付け苦手なんですよね。

よくわかります。

次から次へとやってみたいことを思いつくのです。

次から次へと読みたい本が見つかるのです。

それはとても素晴らしいことだと思います。

何かをし始めては熱中して、後でもう少しこれを使って何かしようと思って、

別のことに熱中して、それも後でもう一工夫しようと置いておいて、

そして他のことをし始めます。

1冊読んでいるうちに、関連する別の本をちょっと調べて置いておいて、

そうだあの本にもあったよなとか思ってまた別の本に熱中して、

休憩に漫画を読んで、次の巻も読んで、

そうそう、あの本まだ読んでなかったって読み始めたりします。

いつも同時並行で何かが行われています。

長男だけでなく、おそろしいことに次男もそうなってきました。

ぼくも実験してみるわー!と、自由研究の本が最近の次男の愛読書です。

 

「私もどんどん本の山作っちゃうから、人のこと言えないので、あまり言わないようにしているけどさ、あまりにひどいのでどうにかしてくれない?」

「あはは、お母さんもそうなの?わかりました〜」

あまり陰性感情を込めずに私がお願いできるようになり、

子どもたちは数日後にはお片づけをするようになりました。

塩田もなくなりました。

子ども部屋の掃除と片付けは、いつ頃からか子どもたちのお仕事として、二人でしてくれるようになりました。

 

 

相変わらず家中カオスですが、

瞬間的にきれいになることも増えてきました。

ただ、不思議なのは、きれいになったと思ったその数十分後に

また別のものが床の上を埋め尽くしているということです。

発想力豊かなお子たちでございます…

 

『トンボソのおひめさま』

今日は野田俊作ライブラリのオンライン勉強会と、アドラーの著作のオンライン抄読会だった。

 

 

読むべき本が積み上がっているが、しようと思っている作業もあるが、手をつけられていない。

次男は既に春休みである。

一緒にごろごろしたり、本を読んだり、ご飯作ったりしているうちに1日が過ぎていく。

 

パセージの準備やオンライン勉強会の準備だけはしているが、

体調を崩すこともなく、差し迫ってすべきことをこなせているのは私の成長だ。

いつも、目の前のすべきことさえギリギリでできないような状態だったから。

体調のコントロールもできるようになってきた。

感情のコントロールもできるようになってきた。

 

 

 

『トンボソのおひめさま』という本を昨日も今日も次男に読み聞かせた。

この本を読むのは、しばらくはとても難しかった。

長男と次男のお気に入りの本なのだけど、私も好きなお話がつまっているのだけど、

しばらくの間、次男が読んでと持ってきたときに、ごめん別の本にさせてって断っていた。

去年の夏休み、野田先生と一緒にいるときにこの本をたくさん読み聞かせしたから。

こんな機会は最後かもしれないなと思いながら読み聞かせていた。

この時間が少しでも長く続けばいいなと思っていた。

私の勘はよく当たるのだ。残念なことに。

そうわかっていたから、大事に物語を味わいながら読んでいた。

私たちはいくつもの物語を共有している。

 

 

次男も同じことを思っていたみたいだ。

野田先生と一緒に読んだよね、と言った。

ぼくが卒園したの、おめでとうって言ってもらいたかったな、と言った。

1年生になるところ見てもらいたかったな、と言った。

でもきっと見ててくれるよね。

 

野田先生のお葬式の最中、うつむいて泣いている私の頭を、次男がなぜてくれた。

あの日から、次男は変わったように思う。

私は次男にもとても支えてもらっているんだと知った。

「お母さんは大丈夫だよ。ありがとう。

 あなたがにこにこして一緒にいてくれるだけで、お母さんは元気になれるよ。」

そう言うと、嬉しそうにしていた。

 

それから、寂しいときや悲しいときや辛いときは、楽しいことや面白いことをしようって次男は決めたみたいだ。

私や長男が機嫌が悪いとき、次男は面白い話をしたり踊ったりする。

長男とひどい兄弟喧嘩をした後、次男はおどけたり冗談を言ったりする。

そう、次男は昔から陽気な人だった。

一人の世界で静かに過ごすことも好きだけれど、

お調子者ストレンクスも持っている。

場面によってはふさわしくない行動になる場合もあるけれど、

彼の優しいところが素敵だなと思うし、とてもありがたい。

 

 

『トンボソのおひめさま』、私はやっと、声をつまらせることなく読み聞かせできるようになった。

次男と一緒に楽しい物語を、美しい物語を、また味わえるようになった。

私は子どもたちのおかげで、寂しさを抱きながらも暖かさを感じて過ごせている。

私が支えてもらっていて、私の成長を助けてもらっているなあと思う。

 

 

『火の竜水の竜』

今日はパセージ第3章だった。

今のところなんとか、マニュアル通りすべての内容を2時間半でおさめている。

やっとパセージリーダーとしてプロになってきたかな…





『火の竜水の竜』というファンタジー小説が、長男の学校で流行っている。

多くの方はご存知ないと思うけれど。

なぜなら『火の竜水の竜』は、長男が書いた物語だからだ。


1年生の冬ごろに第1巻が作られた。

2年生の冬ごろに続巻が作られ、その後続々と物語が展開され、作られている。

初めは白い紙に書いて、挿絵も描いていたが

4年生になってからは原稿用紙に書くようになった。


仲良しのお友だち2人に読んでもらって、感想やアイディアをシェアリングするらしい。

そして続きを書いては、また読んでもらうのだそうだ。

時々、教育実習の先生に読んでもらったりもしていた。

実習の終わりにはオリジナルのキャラクターのしおりやポスターを作ってプレゼントしたり、

グッズ作成も1人で手がけている。

現在8巻まで完成しているらしい。

ちなみに次男も熱烈な読者である。


昨日のお昼

「お母さん、お願いしたいことがあるのですが今よろしいでしょうか!」

「なんですか?」

「あの、もうあと3日で学校が終わってしまうので、春休みに入る前に、TくんとNくんに『火の竜水の竜』をプレゼントしたいんだ。」

「そうなんだ。」

「それでですね…原稿用紙をコピーしたいんですが、コピー機使わしてもらっていいでしょうか!紙もください。」

「うーん…あの紙はお母さんのお仕事用なんだけど、何枚ぐらいコピーしたいの?」

「えーっと、1巻が〜枚、2巻が〜枚で、3巻が〜…で、それを2倍だから…えーっと164枚ですかね。あ、ちがった216枚かな?」

「それはちょっと困ります〜」

「えー!でも手書きは無理がありますよー。」

「そうだね 笑」

「そこをなんとか!コピーさせてください!」

「うーん…。ちょっと多過ぎやわ。パソコンに打ち出してみたら?そうしたら紙の量ずいぶん減るんじゃない?」

「あ!じゃあそうします!パソコン貸してください!ぼくけっこうタイピング上手になってきたから。」

「どうぞ」

「じゃあ頑張ります!」


それから長男は昨日の午後中と今日の一日中かかって、

400字詰め原稿用紙約100枚分の『火の竜水の竜』をタイプし終えた。

夫に教えてもらって、縦書きで、ページ番号も入れて、

タイトル文字の大きさや、作中の物語は文字色を変えたり、様々に工夫していた。

(そう、『火の竜水の竜』はメタ構造の物語なのである!)


まさか2日で完成させるとは思わなかった。

2人分で38枚をプリントアウトした。

それから製本して、1人1人への手書きメッセージを書いて、

できたー!と、夜遅くに嬉しそうに報告しに来た。


チャムシップだね。

健全な前思春期の少年だ。

ファイルになって読みやすくなったのはとてもありがたい。

時間のあるときにお母さんも読んでーと言ってくれているのだけど、

話が複雑すぎて、そして字が小さすぎて混み入りすぎていて、4巻あたりで挫折していた。

この機会に読んでみよう。

でもそろそろ私には見せてくれなくなるのかな。

そうなっていくのも極めて健全な発達で、嬉しく思う。


結末の体験

今日はチベット仏教のオンライン勉強会だった。

リンポチェがいつも終了時刻より30分ほど長くお話ししてくださる。

たいへんありがたいのだけど

今晩は、まだ明日のパセージの勇気づけカードを書いていなくて、

しかもだんだんリンポチェのいいお声のチベット語で心地よくなって眠くなってきてしまって、

今、こんなギリギリまで残していたことの結末を体験している…

と、しみじみ味わっていた。


以前ならば私はとても焦っただろう。

でも今晩は焦らなかった。

焦っても焦らなくても状況が変わらないとわかったからだ。

心地よく眠たくなりながら、この後ちゃんと書くんやぞーと自分に言い聞かせただけだ。


そして私はちゃんと全員分の勇気づけカードを書いた。

ー次からはどうしますか?

もう少し早めに準備をします!

よいことを学びました。


そして達成感に満ちあふれて、危うくこのブログを書くのを忘れそうだった。

しかし書いたぞ!



「恋人」

昨日は野田先生の論文のオンライン勉強会だった。

近代西洋思想史とウィーンの歴史と、

アドラーが生まれるまでの思想と歴史の流れも学んでいる。

時間はかかるけれど、この勉強会を始める前に思っていたよりは、

かなりのスピードで視界が開けていっている気がする。

そして学んだことが様々な場面の実践で活かせているような気がする。

勉強は、仲間と共にすべきものだ。

互いの成長が何よりも嬉しい。だから私はもっと学ぼうとし続けていられる。

 

 

今日はカウンセリングだった。

セッション7回目にして、終結することができた。

たいへんなご事情だったのだけれど、

もうカウンセリングの必要はなさそうで、あとは自分で学んだことを訓練していくことだと思います

と言ってくださった。

ご自分のできることを確かに見極め、自分にできることは引き受けようと、

いつもそうやって生きておられるこのクライアントさんのストレンクスが光り輝いていた。

決して私に依存したりしない。素敵だなと思う。

(私がそんなに頼りにならない、ということもあるかもしれないけれど。)

 

クライアントさんの成長がものすごいスピードで、毎回私は感動していたのだった。

相変わらず私のカウンセリングは拙くて申し訳ないなあと思うのだけれど、

どのクライアントさんも、本当に私のことを信頼してくださって、

一生懸命にご自分のことを振り返り、考え、言葉を尽くしてくださった。

そのことが本当にありがたくて、私はそのお気持ちに応えられるよう、

私自身がクライアントさんをどこまでも信頼できるようになった。

この方なら、きっとご自分の力で道を切り拓いていくことができる。

そう信じられるようになった。

いつも思うのだけれど、こんな濃密な関係を築けるということが、私にはとても嬉しいのだ。

一緒に美しい物語を探していく過程は、そのまま、私とクライアントさんとが築く美しい物語と二重写しであってほしいと思う。

 

 

カウンセリングはとても負荷のかかる行為である。

嫌な出来事なんて、できれば思い出したくもない。

それなのにエピソード分析では、けっこうしつこくエピソードをお聴きする。

2、3回のセッションを通じてひとつのエピソード分析をすることも私は多いので、

そのエピソードを何度も何度も語り直してもらうことになる。

そんな嫌なことをさせておいて、安くないお金いただいて、難しい宿題まで出して、

それでお役に立てなかったら、ほんとに許されないような行為だと思う。

そういうカウンセリングというものが、クライアントさんにとって嫌なことではなくて、必要なことだと理解して取り組んでいただけるという不思議な状況は、

カウンセラーとクライアントとの間に臨床的枠組が成立していること、言い換えれば治療的人間関係が成立していること、が条件となる。

 

私は、カウンセラーとクライアントとの関係は、恋人どうしの関係と、ある面で似ていると思う。

恋人たちは、この人であれば、と、特別な行為を許すことができる。

お互いを大切に思い、安全な枠組の中で、

明文化されていないかもしれないが、様々な約束の上で2人の関係を作っていく。

一緒にいることの目的がはっきりしている点や、2人の関係を取り扱わない点などで、

カウンセラーとクライアントの関係と恋人どうしの関係は大きく異なるけれど、

信頼関係に基づく特殊な関係であることは似ているだろうと思う。

 

そして私は、クライアントさんに自由でいてほしいと願う。

私の好みに縛られないでいてほしいと願う。

クライアントさん自身の人生を、探して、幸せになってほしいと思う。

つまり私の「恋人」という比喩は、人生を共にする運命共同体としての「夫婦」と、差異があるのだ。

また、私はクライアントさんからの精神的な見返りを求めていない。

ただクライアントさんが美しくなっていかれるのを見ていたいと思う。

 

おそらく、私は恋人タイプの治療者に成長していっているんではないかと、最近思う。

野田先生から、パセージリーダー養成講座で、治療者のタイプには3種類あると教わった。

ひとつは父親タイプ。優しく、決断力、行動力がある。

ひとつは母親タイプ。面倒見がよく、献身的。

そして恋人タイプ。同じところで共に悩んでくれる。共に嘆き続けてくれる。

 

私は、自分は父親タイプの治療者になるのだろうと思っていた。

でもどうも、ライフスタイルが成長して変化したのだろうか、

普段の私は決断力があるのだけれど、

最近、カウンセリング中は、カウンセリングの現場レベルでの選択肢だけでなくて、メタのレベルのカウンセリングの進め方についても、選択肢を提示して、

ひとつひとつの選択肢を、クライアントさんと一緒に時間をかけて丁寧に吟味することが多い。

どちらを選んでもきっとクライアントさんにとって一番良いことが起こるだろうと思っていて、

ある意味で私の決断を手放している気がする。

 

ただただ愛しいのだ。もっと知りたいと思う。

そして、やがて私のもとを去っていくことも知っている。

けれど、また私を必要と思ってくださる日が来れば、いつでも喜んでお会いしたいと思っている。

 

 

向かい風

今日は次男の卒園式でした。

良いお天気で

良いお式で

良い笑顔で

子どもたちは今日へのカウントダウンをきちんと数えてきたんだなと思えました。

存分に遊びきって、今日を迎えた晴れやかな顔でした。


私の近しい親たちはみんな泣いて泣いて、本当に寂しいねって言い合いました。

またいつでも会えるのにね。

でもそういうことじゃないんでしょう。

ここで共に過ごさせてもらった日々への未練です。

私たち親も、友だちになりましたね。

子どもたちみんなの成長が嬉しいです。

先生方には、感謝しかないです。




よごとを書こうと努めていますが、

こういう類の寂しさや嬉しさ、ありがたいという美しい思いと共に、

私にとっては、怒りや悲しさも同時に味わうこととなった日でもありました。


今、私が怒りを使ったとしても何も事態は好転しないとわかっています。

この怒りを見つめると、それは大きな悲しみであることに気づきました。


私の大切な方のお力になりたいと思いますが、

私にはできることがないのです。

自分の子どもたちを慈しみ、子どもたちみんなを慈しみ、

子どもたちみんなが良い人間関係の中で育っていけるようにアドラー心理学を使い、

そうやって良い社会を作っていく、

私は小さな一歩を重ねていくしかないのでしょう。

とても迂遠です。

私は私の大切な方を守れはしないでしょう。

それでも、共に良い社会を作っていくことはできると思います。


理想には決して手が届きません。

私は現代の病に蝕まれていく私の居場所を見て、絶望しそうになります。

だけど、子どもたちがいる限り、希望を持ち続けられると感じます。


どうかいつまでも私たちの幼稚園が、強くたくましく優しい子どもたちの育っていく場でありますように。

親たちも共に育っていく場でありますように。

美しい共同体でありますように。



この道

今日はオンライン事例検討会でした。

 

明日はとうとう卒園式です。

長男と次男合わせて6年半通った幼稚園です。

私の方が寂しいなあ…

 

今年度は、これまで夫が次男を幼稚園に送ってくれていたのですが

コロナの影響で夫は長男を学校に送って行ってくれることになり、

毎日私が次男を幼稚園に送っていきました。

1学期の頃は歩いて20分以上かかっていたのが、

今は15分もかからないで到着するようになりました。

毎日毎日、先生におはようございますと言ったら、

私のいってらっしゃいを背中で受け止めて、

走って門をくぐっていきます。

ふりかえることなんてなくて、

体調が悪い日に、幼稚園を休みたくないと言って泣くことはあっても、

幼稚園に行きたくないと泣くことは、2人とも一度もありませんでした。

 

 

家から幼稚園までの道は、幾つかの選択肢があります。

次男は大きな分かれ道に、いつの間にか一方をジンベエザメコース、もう一方をイルカコースと名付けていました。

ジンベエザメコースの方が遠回りです。

図書館の横を通っていく道です。

駐車場の横の植え込みには、今ちょうどツクシがたくさん生えています。

初夏にはツツジが満開になります。

「ぼく、ツツジが咲いたらまた蜜をちゅっちゅって吸いながら幼稚園に行こーっと」

と、積もった雪を踏みしめながら次男は言いました。

次のツツジが咲く頃は、もう君は幼稚園には行かないんだよねと思いながら

私は雪が解けるのを待っていました。

 

 

雪は解けて、桜の蕾がふくらんできました。

私は今、あまり自分の感情をそのまま感じたくないなと思います。

 

子どもたちが本当に幸せな子ども時代を過ごさせていただいたことに感謝しています。

それだけでなくて、私がたくさんの素敵な方々と出会うことができた場所でした。

この土地に移り住んできた私にとって、ここがホームなのです。

子どもを信じること、子どもの世界を大切にすること、子どもを見守ること、

過保護で心配性だった私を変えようと思えたのは、園長先生に出会えたからだと思います。

私も子どもたちと一緒に、育てていただきました。

幸せに生きていくために大切なことは、子どもたちはここですべて学んだと思います。

 

 

もうこの道を、小さな手をつないで歩いていく毎日は終わりです。

幸せな日々を、ありがとう。