昨日は野田先生の論文のオンライン勉強会だった。
近代西洋思想史とウィーンの歴史と、
アドラーが生まれるまでの思想と歴史の流れも学んでいる。
時間はかかるけれど、この勉強会を始める前に思っていたよりは、
かなりのスピードで視界が開けていっている気がする。
そして学んだことが様々な場面の実践で活かせているような気がする。
勉強は、仲間と共にすべきものだ。
互いの成長が何よりも嬉しい。だから私はもっと学ぼうとし続けていられる。
今日はカウンセリングだった。
セッション7回目にして、終結することができた。
たいへんなご事情だったのだけれど、
もうカウンセリングの必要はなさそうで、あとは自分で学んだことを訓練していくことだと思います
と言ってくださった。
ご自分のできることを確かに見極め、自分にできることは引き受けようと、
いつもそうやって生きておられるこのクライアントさんのストレンクスが光り輝いていた。
決して私に依存したりしない。素敵だなと思う。
(私がそんなに頼りにならない、ということもあるかもしれないけれど。)
クライアントさんの成長がものすごいスピードで、毎回私は感動していたのだった。
相変わらず私のカウンセリングは拙くて申し訳ないなあと思うのだけれど、
どのクライアントさんも、本当に私のことを信頼してくださって、
一生懸命にご自分のことを振り返り、考え、言葉を尽くしてくださった。
そのことが本当にありがたくて、私はそのお気持ちに応えられるよう、
私自身がクライアントさんをどこまでも信頼できるようになった。
この方なら、きっとご自分の力で道を切り拓いていくことができる。
そう信じられるようになった。
いつも思うのだけれど、こんな濃密な関係を築けるということが、私にはとても嬉しいのだ。
一緒に美しい物語を探していく過程は、そのまま、私とクライアントさんとが築く美しい物語と二重写しであってほしいと思う。
カウンセリングはとても負荷のかかる行為である。
嫌な出来事なんて、できれば思い出したくもない。
それなのにエピソード分析では、けっこうしつこくエピソードをお聴きする。
2、3回のセッションを通じてひとつのエピソード分析をすることも私は多いので、
そのエピソードを何度も何度も語り直してもらうことになる。
そんな嫌なことをさせておいて、安くないお金いただいて、難しい宿題まで出して、
それでお役に立てなかったら、ほんとに許されないような行為だと思う。
そういうカウンセリングというものが、クライアントさんにとって嫌なことではなくて、必要なことだと理解して取り組んでいただけるという不思議な状況は、
カウンセラーとクライアントとの間に臨床的枠組が成立していること、言い換えれば治療的人間関係が成立していること、が条件となる。
私は、カウンセラーとクライアントとの関係は、恋人どうしの関係と、ある面で似ていると思う。
恋人たちは、この人であれば、と、特別な行為を許すことができる。
お互いを大切に思い、安全な枠組の中で、
明文化されていないかもしれないが、様々な約束の上で2人の関係を作っていく。
一緒にいることの目的がはっきりしている点や、2人の関係を取り扱わない点などで、
カウンセラーとクライアントの関係と恋人どうしの関係は大きく異なるけれど、
信頼関係に基づく特殊な関係であることは似ているだろうと思う。
そして私は、クライアントさんに自由でいてほしいと願う。
私の好みに縛られないでいてほしいと願う。
クライアントさん自身の人生を、探して、幸せになってほしいと思う。
つまり私の「恋人」という比喩は、人生を共にする運命共同体としての「夫婦」と、差異があるのだ。
また、私はクライアントさんからの精神的な見返りを求めていない。
ただクライアントさんが美しくなっていかれるのを見ていたいと思う。
おそらく、私は恋人タイプの治療者に成長していっているんではないかと、最近思う。
野田先生から、パセージリーダー養成講座で、治療者のタイプには3種類あると教わった。
ひとつは父親タイプ。優しく、決断力、行動力がある。
ひとつは母親タイプ。面倒見がよく、献身的。
そして恋人タイプ。同じところで共に悩んでくれる。共に嘆き続けてくれる。
私は、自分は父親タイプの治療者になるのだろうと思っていた。
でもどうも、ライフスタイルが成長して変化したのだろうか、
普段の私は決断力があるのだけれど、
最近、カウンセリング中は、カウンセリングの現場レベルでの選択肢だけでなくて、メタのレベルのカウンセリングの進め方についても、選択肢を提示して、
ひとつひとつの選択肢を、クライアントさんと一緒に時間をかけて丁寧に吟味することが多い。
どちらを選んでもきっとクライアントさんにとって一番良いことが起こるだろうと思っていて、
ある意味で私の決断を手放している気がする。
ただただ愛しいのだ。もっと知りたいと思う。
そして、やがて私のもとを去っていくことも知っている。
けれど、また私を必要と思ってくださる日が来れば、いつでも喜んでお会いしたいと思っている。