手抜き

今日は次男の個別懇談と次男のお友だちづきあい等のお母さん業と、オンライン事例検討会だった。


私は自分の用事を最優先してしまって、あまり子どもたちのお相手をしていないなと、

幼稚園のお母さん方を見ていて思う。

せめて今日の帰り道くらいは次男のお相手をしっかりしてみようかと思った。

いつも次男は、私の仕事の日は早くに家を出て、早足で歩いて私につきあってくれる。

そのことを、私は当たり前だと思っていた、と思う。

…協力に感謝しなければ。

そう思うと、私が次男に対してできることが色々あるとわかった。


個別懇談の前は広場でフリスビーで遊び、公園でシーソーにおつき合いし、

そして帰り道は点字ブロックと縁石の上だけを歩くという冒険にお供した。

途中でコルクの栓を見つけ、ふたまたの枝を見つけ、鴨やサギに挨拶して、

20分で着くはずの我が家まで、40分の冒険であった。


これを毎日毎日こなすの、たいへんです…!

私は料理ばかりか、育児も手抜きだなあとしみじみ思う。

必要なのは栄養と勇気づけなので、それさえ満たしていればいいかと思う。


でも時々は、子どもたちの世界にお供させてもらおう。

彼らがどんな風にものを見て、感じているのか知りたい。

私もできることなら、一緒にその世界を見て、感じてみたい。

毎日毎日、どんなことを学んで成長していっているのか、見ていたい。



「荒野の果てに」

今日はコーラスの練習と、次男のお友だちづきあいのおつき合いでお母さん業と、オンライン勉強会だった。

 

今はクリスマスに向けて、たくさんの賛美歌やクリスマスソングを歌っている。
私が幼稚園のママさんコーラスに入ったのは、去年のクリスマスコンサートを観に行って、決めたのだった。
「荒野の果てに」という賛美歌を歌っておられた。


私もキリスト教の幼稚園に通っていて、小さな古い教会で賛美歌を歌うことが多かった。
小学2年生の頃まで、土曜日の教会学校にも、幼稚園の同窓会みたいな気分で時々通っていた。
あの小さくて古い教会では、私は歌を歌った記憶ばかり持っている。
そのときに歌った私が一番好きだった歌は、
クリスマスコンサートで、日本語ではこの「荒野の果てに」だと気付いて、
あの歌をまた歌えたらいいなと思ったのだった。
そして、今、私はこの町で、子どもたちの幼稚園の教会の中で「荒野の果てに」を歌っている。


「荒野の果てに夕日は落ちて たえなる調べ天より響く
 グローリア インエクセルシスデオ グローリア インエクセルシスデオ

 羊を守る野辺の牧人 天なる歌を喜び聞きぬ
 グローリア インエクセルシスデオ グローリア インエクセルシスデオ

 み歌を聴きて羊飼いらは まぶねに伏せる御子を拝みぬ
 グローリア インエクセルシスデオ グローリア インエクセルシスデオ

 今日しも御子は生まれ給いぬ 世界の民よ喜び歌え
 グローリア インエクセルシスデオ グローリア インエクセルシスデオ」 

 

仲間と共に早期回想を旅をして、私の子ども時代に自分でかけた呪いが解けていく。
同じ歌を歌っている私が、幼い日の私だったり大人になった私になったり、
重なって、どちらも私であることを感じた。
私は結局思い込みから放たれることはないのだけれど、
幼いときの自分を認めることができたことで、今の自分も認めようと思えるようになった。


午後、近所の子どもの遊び場で、次男とお友だちと遊んだ。
4歳の女の子と仲良くさせてもらった。
私もこんな風に、世界を新鮮に受け止めて、身体中できらきらした世界を受け止めて、生きていたのかなと思えた。
私は世界とひとつだったな、と思った。
子どもたちはそうやって生きているんだって思えて、
この子たちと共にこの時間を過ごせていることがかけがえなく思えた。
この子たちを慈しむことが、輝く未来を作っていくことに、必ずつながると信じられた。

 

私はキリスト教徒ではないけれど、子どもに未来を託すという比喩で、
あの時代にどれほど人々が、輝く未来を信じたかったのかということを、
少しだけわかったような気がした。
だけど、あの時代はきっと、世界と私はひとつであっただろう。
今の時代に生きる私たちの不幸は、世界とひとつになれないことなんだと思う。
でもそのことを、思い出すことができれば、私たちは幸せになれると思う。

灯がともる

今日も絶対的休日。
のんびりした3連休でした。

 

パセージが終わって、一息ついて、パセージのメンバーさんたちと、先日カウンセリングが無事終結したクライアントさんのことを思っていました。
私のところでアドラー心理学やパセージを共に学ぼうと思ってくださった方たちと出会えるのは、ほんとうにご縁だなあと思います。

とてもありがたいです。

 

私は弱くて小さな人間です。
だけど、これまで学んできたアドラー心理学の技法を使って、アドラーという偉人の肩に乗って、
パセージリーダーやカウンセラーとしての役割を担っているときだけ、
私は目の前の方のお役に立てるのだと思います。
私自身を努めて制御し、アドレリアンセラピストとしての思考と行動ができるよう、2人の師匠をモデルに動こうとしています。
もしも私がお役に立てていることがあるのなら、それはすべて2人の師匠とアドラーのおかげです。
私が十分お役に立てていないところは、すべて私の責任です。師匠とアドラーを裏切り続けている私の未熟さです。
こういう風にどこまでも、楽しさのかけらもなくストイックに考える私は少数派でしょう。
わかっています。
でも私は、こういう道を好んで、選んでいるのです。

 


クライアントさんは、「困ったことが起こったら、美穂さんの顔が浮かぶんです。」っておっしゃいました。
「これは美穂さんにお話ししようって思って、
からしっかりと今何が起こっているのか、観察しようって、冷静でいられるんです。
それで、今まで美穂さんと一緒に学んできたことを思い出して、
今私は何ができるかなって、今この場面でできることは何かなって、考えられるようになったんです。
まだ上手には実践できないんですけど、でも、そうやって少しでもできたことを美穂さんにお話ししたいなって思って。
もし失敗しても、きっと私が気づいていないことを見つけて、勇気づけてもらえるから、
美穂さんにお話ししようって思って、頑張れるんです。」
そんな風に言っていただけて、感謝しかありませんでした。
2人で過ごした今までの時間を思い出して、
カウンセリング中なのに、泣けてきてしかたがありませんでした。
こんな風にして私が誰かの中で生きていけるんだって、
これ以上に幸せなことってないなって、

これは私の自己執着なんだろうけれど、
私は生きていてよかったなって思えたのです。


そしてこの言葉は、このクライアントさんだけでなくて、
もうお1人のカウンセリングを終結したクライアントさんも、 それからパセージを受けてくださったメンバーさんの中にも、

同じように言ってくださった方たちがいらっしゃいます。
これはすべて、私の力ではないのです。
私がアドラー心理学を学んでいただくお手伝いができたということです。
クライアントさんたちメンバーさんたちが、たくさんのストレンクスを、ご自分で気づき、使えるように努められたこと。
相手役さんたちのために、自分の行動を変えようと決断されたこと。
その尊く美しい姿を、隣でずっと伝え続けていたということが、多分私の果たした役割だったのでしょう。

 


だから、クライアントさんたちメンバーさんたちの成長がとっても嬉しくて、そしてとっても愛(かな)しいのです。
さようならするのはとても寂しいです。
だけど、短い人生の中で、これだけ誰かと心で繋がれたということ、私は得難い幸せを感じているのだと思います。
たとえ何が起こっても、この心にともったあたたかい灯は消えません。
私はひとりではないと、信じられるようになりました。
ほんとうに、ありがとうございます。

 

女子力の偏り

今日も絶対的休日。

 

珍しく夫も昼過ぎまで一緒で、家族で休日らしい休日を過ごすことができた。
とは言っても遊びに行けたわけではなく、たまっていた外の用事をみんなで慌ただしく片付けていった。
子どもたちの髪を切ってもらいに行ったり、次男のランドセルを買いに行ったり。


帰宅して昼ごはんの準備をしていたら、電子レンジが急に何にも反応しなくなった。
私が大学生の一人暮らし時代からずーっと使っていた電子レンジだから、無理もない。
昨日まで元気だったのに、急なことでびっくりした。
しかし今日はすぐに夫と買いに行くことができてよかった。
もしこれが来週だったら、私は電子レンジなしで1週間やり過ごさなければならないところだった。

 

食事が終わって「行こう、もう、今すぐ買いに行こう!」と言う私に
「買いに行くのはいいけど、どんなのがいいか、リサーチしなくちゃいけないんじゃない?何も考えないで行っていいの?」
と夫が言った。
「一番低機能の型落ちの安いやつでいいから、私は何でもいいからリサーチいらんよ。」と言う私。
「えー、いいの?」と笑う夫。
「私、高機能あっても使いこなせないもん。お店にあるやつから選べばいいよ。」
「それもそうですね。」
スマホで急いで口コミ等を調べかけていた夫が、ちょっとほっとした顔をして、

「じゃあ行こうか。」と言ってくれた。


「じゃあお父さんとお母さんは電子レンジ買いに行ってくるので、お留守番を頼みます。」 と子どもたちに言いに行ったら、
「え!どんな電子レンジにするの?あの、せっかくだからぼく、色んなのが作れる電子レンジにしてほしい!」
と、まさかの長男から要望が。
そうだった…!お料理男子長男、私より相当女子力高いんだった…
「そうだよねー!どんな機能があったらいい?」
なんか嬉しそうな夫。もう君らで決めてくれ〜!
長男「えーっと、オーブン機能はほしいです。色んなお料理作ってみたいから。」
夫「オーブン機能も、電子レンジによって色々あるんだよね。ヘルシオとかだとスチーム機能とか、値段も高いやつはすごいからなあ…。
でもうちはダッチオーブンとグリルがあるから、ある程度はできるんじゃない?なんかできないことあるの?」
長男「あのですね、ダッチオーブンは温度設定ができないんですよ。だから、温度調節できるオーブン機能があったらいいな。」
夫「あ、それはそうだね、わかった。」
私「たいていの電子レンジにはオーブン機能ついてるから、一番単純で安いやつでいいかなあ。あんまり高機能だと、私が使えなくて困るので。」
長男「じゃあそういうのでお願いします!」
無事に目標が一致した。


車で2人になると、「どこの店に行きますか?」と夫。
うんざりする私。次は店選びか…!ほんとにどこでもいいんだけど。
私「どこの電気屋さんでもいいです。」
夫「古い電子レンジの下取りの値段とか、お店によって違うからさあ。」店を調べようとスマホを取り出そうとする夫。
私「あー…どこでもいいよ。下取りも、もう、言いなりで…。私わからへんし。」
夫「うーん、じゃあさっき通ったところの電気屋さんにしようか?それともあっちの店にしようか…」
私「さっき、新しいホームセンター見つけたよね。」
夫「あ、そうだったね。じゃあそこに行ってみましょうか♪」
無事に目標が一致して、穏やかなドライブとなった。

 


夫と長男は、新しいものとか買い物とか、色々考えたりするの好きだよね、と思った。
道具を使うことも本当に好きみたいだ。
生活することを楽しめて、いいねと思った。

 

私はほんとにすべてが面倒くさくて嫌いだ。
物を買うことも、物の管理も、できる限り考えたくないししたくない。
こだわりがあるのはノートとか文房具ぐらい。じっくり考えて選びたいのは本だけ。あとは服ぐらいか。
でもできることなら、これと気に入ったものが見つかればずーっとそれを使い続けて、古くなって使えなくなったら、まったく同じものに更新していきたい。
新しいことにできる限り脳みそ使いたくない。そういう人間だ。
食材も、生協の宅配で、毎回ほぼ同じものをほぼ同じように注文し続けている。
自分がどれだけ主婦向きじゃないのかと驚いている。
よく今までやってきたよ、がんばったね、と思えた。

 

ホームセンターの棚にあった電子レンジの中から私が即決し、
無事に条件を満たす電子レンジを購入し、無料で下取りしてもらえて、帰宅した。

 

そう、夫は様々に様々に選択肢を提示してくれて意見を聞かせてくれるのだけど、
私の意見を必ず聞いてくれて、しかも最終的な判断は私に委ねてくれるのだ。
私は、選択肢が多いのが嫌いで、できれば3つぐらいの選択肢から即決したい。自分の判断で。

 

夫と今まで長年生活を共にしてきて、
私は様々な選択肢をきちんと比較し対照し、もっともな理由をちゃんと考えて、
そしてひとつひとつの物を選択していかなければならないんだと思っていて、
それがとてもしんどかったことに気づいた。
このやり方は、夫の好みのやり方だ。
私の好みのやり方は違うんだ。
そのことにやっと気づいて、私のいい加減な物の選択のしかた、
私の物に対するこだわりのなさと、選択するという面倒くささを、認めてもいいように思えた。
なんでもいいよ、どんなんでもいいよ、私にこだわりはないから。私に使えるような物ならいいよ。
初めて、みんなが使う物について、こういう私の正直な気持ちを言えたかもしれない。
そうしたらみんなは自分のこだわりを自由に表してくれた。
そして、今日は夫が私のやり方に合わせてくれたようにも思えた。
私たちはずっと、お互いのこと思っていたはずなのに、お互いにしんどくなる方法しか知らなかったみたいだ。
これからはもう少し、上手におつき合いができるようになればいいなと思う。

 

 

夫と2人で電子レンジを設置した。
そういえば大きさ測ったりもしてなかったけど、設置場所にぴったりだった。(よかった…)

 

子どもたち、「わあすごーい!早く使いたい!」 と喜んでいた。
「今日の夜ごはん作るとき、お手伝いしますので!電子レンジ使ってね!」
長男は取扱説明書を熟読。
長男「お母さん、壁面取り付け金具はどこ?」
私「あ、それは別売りで、買ってません。」
長男「そうなんだ。えーっと、汚れが付着したらすぐに拭き取ってください、だって。」
私「はーい。」
長男「ふーん、回路図はこうなってるんだって!これが閉じたとき、開けたらこうなって…」
次男「ねえこの箱、もらっていい?」
私「どうぞ。」
次男「お兄ちゃん、これ、2人で巣にしよう!ぼくここに窓開けてくるから!」
説明書からダンボール箱まで、電子レンジを堪能してくれた。

 


そして夕方はやたらと早い時間から、
2人から「夜ごはん作ってくださーい」、「お母さーんそろそろご飯作り始める時間ですよー」と、お呼びがかかった。
冷凍していたタラコを半解凍するのと、人参をゆでるのに使わせていただいた。
子どもたちは今までの電子レンジにはなかった「半解凍」ボタンと「茹で野菜(根菜)」ボタンに感動していた。
人参は、今まで18分ぐらいかかっていたのが5分でできあがった。
たいへん便利だ…。賢くて使える子は、好きだ。
みんなに愛された電子レンジ、大切に使っていきたい。
これでますます私の手抜き料理に磨きがかかりそうで、ありがたい。
そして長男の凝った料理にも磨きがかかるのだろう。

登り棒の上

今日は絶対的休日でした。

 


自分の競合性に向き合う機会が最近、とても多いです。
早期回想の世界に浸っていると、また少し私のことがわかってしまいました。
気づいてしまうことはとってもへこみます。
本当は私はもっと大人な自分でいたいものだと思っているからです。
でも、気づいてしまったら、もう気づいていなかった自分には戻れません。
まず受け止めて、もう少し大人になるためにどうするか、考えるのです。

 

思い出したのはこんな早期回想です。

ーーーーー
幼稚園の年長のとき、私はある男の子2人にすごく嫌なことをされました。
私の両親が、幼稚園やその子たちの親御さんに連絡して、問題は明るみに出ました。
その後日のことです。

私は仲良しの女の子の友だちと、登り棒の一番上まで登って、そこでふたりでおしゃべりしていました。
景色がよく見えて、とても楽しかったです。
すると、その男の子のうちの1人が、登り棒に近づいてきました。

私は、嫌だなって思いました。
その子は登り棒の下で、「なあ、ごめんな。」って言いました。
私はその子を見下ろして、黙っていました。
「なあ、ごめん。もう絶対しないから。」
その子は泣きそうな顔をして、私を見上げて言いました。
でも私は嫌でした。早く向こうに行ってほしいと思いました。
友だちが私に、「ねえ、何のこと〜?何を言ってるの?」って聞きました。
「俺、謝ってるねん!ごめんって!」男の子は登り棒の下で声を張り上げました。
私は、「えー何のことかわかんなーい!」って、友だちの方を向いて言いました。
男の子は、「ごめんって言ってるのに!」と泣きながら言って、去って行きました。
私は男の子の去って行く後ろ姿を見てほっとしました。
ーーーーー

よくない早期回想です。
私はこの早期回想をオンライン勉強会で仲間に話して、その意味がおぼろげにわかったように思います。


私は軽蔑する人間です。それはもう徹底して。
そのことは、何年も前に講座でカウンセリングや心理療法を受けさせてもらったときに気づいたことでした。
でも、ああここまで私は徹底して軽蔑し切るんだということに衝撃を受けました。
登り棒の上と下。
見下ろす私と見上げる彼。
無視する私と泣いて謝る彼。
それでも私は許さないのです。絶対に。


でも、私は仲間に話しているうちに、彼の良いところに気づくことができました。
彼は精一杯、謝ってくれたのです。
それはとても勇気のいることだったと思います。
自分が悪かったということを、彼は思っていたと思います。
私が嫌なことをされたときも、彼はもう1人の男の子を止めようとした場面もありました。
私は彼らのことを決して許さないけれど、
でも彼は自分が悪かったということを認めて、私に許しを請うたのです。
それは彼の良いところだと、私は初めて思えました。


だけど私は彼と一緒には居たくないのです。許すこともできません。
それはそれでいいと、思います。
でも、彼の誠意だけは受け止めることができるかもしれません。
仲間が一緒に早期回想の旅をしてくれたから、

もしも今の私なら、と代替案を考えることもできました。


「なあ、ごめんな。」って言ってくれたときに、私は登り棒から降りようと思いました。
多分何も言えないと思うけど、

とりあえず登り棒から降りて、同じ地面に立つことはできそうです。
それで、黙って向き合おうと思います。
きっと彼は続けて「なあ、ごめん。もう絶対にしないから。」と言ってくれるでしょう。
私は、「わかった。謝ってくれてありがとう。でも、私は許せない。ごめんね。」と言おうと思います。
彼はどうするでしょうね。
わからないけれど、私が登り棒の上で謝罪すら無視し続けるときよりは、
彼は傷つかずにいられるんじゃないかなと思います。


私は絶対に許しません。そして私は自分が絶対に正しいと思っています。
だけど、相手の立場に立つことも、しなければならないと思うのです。
私は許さなくてもいい。
でも、相手の物語は相手の物語として、尊敬しなければ、
私たちはどこまでも傷つけ合ってしまうと思うのです。
とても勇気がいるけれど。

 

そんなことを、現実と夢と早期回想と、いろいろなものが入り混じりながら思う最近です。
聴いてくれた仲間に心から感謝しています。

時よ止まれ、汝は

今日はパセージ最終章でした。
とうとう、終わってしまいました。

 

私がひとり立ちして、自分ひとりでパセージをし始めてから5回目のコースが終わりました。
パセージをするごとに、素敵な仲間ができていくのが、とても嬉しいです。
1回1回のコースはまったく違う物語で、
そしてそのどの物語も私にとって大切な物語です。

私は拙いリーダーですが、その瞬間瞬間、私にできることをしようとしてきました。
その気持ちがメンバーさんにも伝わったんだなと思うことが毎回あって、嬉しくて、
終わってしまったあの時間をもう一度味わいたくて、
またみなさんとお会いしてご一緒に学び合いたいなあと思います。
特に出雲パセージでご一緒できたメンバーさんたちとは、
今の状況ではコース開催が難しく、フォローアップもできておらず申し訳なく思っています。


自己執着かどうかと点検すると、これは自己執着です。
私が、パセージの中でメンバーさんたちのお役に立てるということが
私の個人的な欲望を満たすのです。
どこまでも傲慢で、自己顕示欲と支配性の塊で、そして寂しがりな私の欲望を。
私がパセージをすることは、メンバーさんたちにとってよいことだろうと思います。
メンバーさんたちの子どもさんたちにとっても、世の中にとっても、よいことだろうと思います。
だけど、私が私のためにという欲を持ちながらパセージをしているんだということ、
これは自己執着なんだということを私はわかっていたいと思います。
いいえ、人々のために利他心のみで私はパセージをしています、と、もしも私が思ってしまったら、
それは自己欺瞞だと思います。

 


私は自己執着にまみれています。いつも。
そしてアドラーは、自己執着の反対が共同体感覚だと言いました。
私はやはりどこまでいっても共同体感覚には手が届かないと思います。
けれどもそれは、共同体感覚の実現をあきらめるという意味ではありません。
決して到達しない目標だとわかっていながら、今、今の私にできることをし続けようという意味です。
私が様々の欲にまみれていても、
私が目の前のメンバーさんを大切に思い、この方のために私にできることをしたいと思う気持ちは、
私が上手にコースを運営しようとか、よいリーダーになろうとかいう欲を手離したときに、
はじめてメンバーさんに届くのだと思います。
とはいえ、私は上手にコースを運営しなければならないし、よいリーダーでなければならないとも、もちろん思っているのです。

 

パウロ・コエーリョ著『アルケミスト』という本があります。
そこに、「大事なことは、(美術館の)素晴らしい絵をたのしみながら、そして(持っている)スプーンの油をこぼさないことだ」と書いてありました。
人間である限り、私は素晴らしい絵の方に意識がいきます。私は快楽に流されます。
けれども、人間は、油をこぼしては、人間ではいられなくなってしまうと思います。
人間らしく生きるためには、油をこぼしてはいけないのです。
その倫理的規範は、誰にも迷惑をかけないかもしれないけれど、ただ厳しいだけで時代遅れの無意味なものに思えるかもしれないけれど、
私は古代からの人間の社会にある倫理的規範は、人間知の最たるものだと思います。
もっとも大きな人間社会の共同体を考えること。
人々のために世のために自分を役立たせること。
それは、人間が私利私欲で動いてしまうことをよくわかった上での規範だと思うのです。
何にも縛られることのない自由なんて存在しないんだと思います。
倫理的規範のない自由は、多分、荒涼とした砂漠のようなものだと思います。

私は規範を守り、その中で自分にできることを楽しみながらし続けていきたいと思います。
それが、この自己執着にまみれた私を、世の中のお役に立てるようにする、唯一の方法だと思うからです。

 


出会えた仲間たちと、これからも一緒に学びたいというのは、私の自己執着です。
寂しいという感情の目的は何なのでしょう。
楽しかった時間が二度と戻らないということは、私にとっては過酷な現実です。
過ぎていく一瞬一瞬を大切に大切にしたいと思って、そうやって感覚を研ぎ澄ませて生きてみても、
なおさら過ぎてしまった一瞬一瞬が寂しく思われます。
どうしたらいいんでしょうね。
私がこの寂しさに飲み込まれないようになのか、次から次へと新たなお役目がやってきます。
とてもありがたいことです。
延期していたパセージ日曜コースも、あとお一人で成立です。
まるで喉の渇きを潤そうとするかのように、次から次へと私はお役目を飲んでいくんだけど、
そうやって忙しくして、私は現実に適応してまっとうな社会人のふりをやっていくんだけれど、
いえ、実際にまた新しい仲間たちと素晴らしい時間を過ごせること、本当に幸せに思うんだけれど、
今日は、もう少し寂しいままで、私の自己執着と向き合っていたいと思います。

さようなら、また

今日は色々雑用の日でした。

他の考え方の人と対話をしていると
全然違う世界を見ていることに気づけます。
そして私の見ている世界がどの方向からのものに偏りがちかも、だんだん気づいてきました。

私は私にばかり関心があるわがままな人間なようです。
だから私は自分の言葉を尽くすことを厭いません。
だから私は他の方の言葉を大切にすること、他の方を尊敬することが不足しがちです。
それはどこまでいっても、足りないんだろうと思います。

だから私は少し黙って、目の前の方のお話を聴こうと思います。
全身全霊で、大切な物語を聴こうと思います。
パセージで出会えたメンバーさんと向き合っているときは、
私自身でない、パセージリーダーになれているときの私は、
メンバーさんたちのお話しを聴けるようになってきたと思います。

明日でこのパセージも終りです。
本当にたくさんのことを学ばせていただけたコースでした。
感謝を込めて、笑顔でさようならをしたいと思います。
またこれからもご一緒に学べますように。