野辺の送り

私は野田先生からたくさんの宿題をいただいて、
できる限りそれに取り組んできた。
ドライカースやブルーメンタールやアドラーの本を洋書で読んでみることを勧められ、
万葉集を読むこと、犬養孝先生の万葉集講義の録音を聞くことを勧められ、
そのときの私のできる限りを、しんどい思いをしながらも楽しんで取り組んできた。
このような宿題を出していただけたことをとても感謝している。
このような宿題を通して野田先生とたくさんの言葉を交わせたことを幸せに思う。
そしてその宿題から、私は新しい世界を知り、たくさんのことを学ぶことができたと思う。


そのときに学べたことはとてもわずかで、ただ、私が必要とするときに、
それらの宿題の文献にアクセスすることができるようになった。
おそらくそれが学問の入り口だろう。
だが私はアドラー心理学を学問として求めているわけでもない。
私はどうやって生きていくかという指針としてアドラー心理学を必要としている。


祖父が亡くなったときも、大切な方が病に倒れられたときも、
今日お向かいのおじいさまをお見送りしてからも、
私は犬養孝先生の書かれた万葉集の本を手に取る。
このどうしようもない私の気持ちを鎮められるのは、万葉集だと知ったからだ。
私の哀しみは人々の中に置いて、歴史の中に置いて、やっと私と折り合いのつけられるものになる。
人は病にかかり、亡くなるものだ。
万葉の時代から、人々は歌に詠んで心を鎮めてきた。
いつも生きていくということの隣に病と死があった。
だから景色は美しく輝く。
すべて消えてしまうものだから、世界は美しい。


子どもたちと一緒の眩しくてせわしい暮らしは、
私が生きている壊れやすい日常、死を含む現実から目をくらませる。
子育ては幸せな現実逃避だ。
お役目が山ほどある。心配が山ほどある。
すべてほんとうは子どもが責任を持って決めていくことなのに、
親の任務と思い込んで手を出し口を出し、自分の人生を忘れることができる。
子どもの持つ未来という大きな可能性を、自分の小さな世界の中へと矮小化する。
まるで自分が人の生殺与奪を決められるかのように誤解する。


そのような自分が支配者であるかのように誤解した世界の中で、
私は急に現れる死や病に、動揺する。
ほんとうは、それが隠されているだけで、現実はいつだって死を含んでいるのに。
だから私の思い込む現実こそが誤っているのだと、
歌を読んで思い出そうとする。
そして3日もたてば、またせわしい日常だけがこの世界だと、私は誤解するのだろうけれど。


高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに  笠金村(巻2ー231)