多重見当識

今日はオンライン勉強会だった。


カウンセリングのとき、クライアントさんの話をお聴きして、
クライアントさんの物語をクライアントさんの目で見て耳で聴いて心で感じる一方で、
アドラー心理学の理論に当てはめたらいったいどこがこのクライアントさんの成長の必要なポイントなのか、
ということを見る必要がある。
この、二つの視点を持つことを二重見当識という。

 

私が落語を好きなのは、噺家というのが本当にすごい芸を演じてくれるからだ。
落語は、一人語りのものはほとんどない。(私が知っているものはひとつだけ。「一人酒盛り」)
多くの小噺は2人の登場人物がしゃべるもので、
多くの物語展開のある噺は、何人もの登場人物が活躍する。
それらの登場人物を、噺家は一人で演じ分け、状況の説明を適宜ナレーションしながら、
言葉と身振りだけを使って我々聞き手の中にその世界を描かせる。


講談は、登場人物になりきる芸ではなく、主には地の文、ナレーションが中心であり、
登場人物を描く場合は、セリフを語ることによって世界を描く芸である。


噺家は、その瞬間瞬間、数いる登場人物になりきって、
そして同時にその物語の構造や展開や、どうやって見せるか、聞かせるか、あらゆることを冷徹に考えていなければならない。
さらに基本的には、聞き手を笑わせなければならない。
人を笑わせるというのはたいへんな技術である。
人を泣かせるのは簡単である。悲しい物語を語るだけで人は泣ける。
しかし笑わせるというのは、ただ面白い物語を語るだけでは、うまくはいかないのだ。


このように落語はたいへん高度な芸だ。
多重見当識と呼んでもいいと思う。


この芸を突き詰めていくと、それは恐ろしく厳しく辛い境地に至ると思う。
ほぼ狂気の域に至るだろう。
私は桂枝雀が自殺してしまったことを、たいへん残念に思うけれど、
彼の書いたものを読むと、そうしてしまわざるを得なかったのかもしれないと思う。
私は枝雀の落語が大好きだけれど、ときどき、彼の落語を聴くのが辛くなることがある。
決して手の届かないものを追い求めるということは、そういうことなんだと思う。
あまりに美しいけれど、私はその物語は採用したくない。


立川談志も、芸について枝雀と同じようなことを書いている。
しかし彼はどこまでも現実に足が着いていた。
だから決して自分が理想の境地に達することができないことをわかっていて、
そこに至れないことをずっと悔しく思いながら、病のために声が出なくなってきても、
一時の輝かしい自分の芸が衰えていくことを見つめながら、身体が動ける限り高座に上がり続け、病によって寿命が尽きるまで生きた。
それはとても無様かもしれない。
だけど私が談志に惹かれるのは、そういう自分の現実を受け入れて、
しかし無謀ではあってもより理想に近づこうと、もがき続けていたからだと思う。
そうやってあがくことは醜いかもしれない。
でも、私は談志の生き方に惹かれる。
自己欺瞞を暴き続けていくから。