anti-oedipus complex

子どもたちは、夜ご飯を食べた後帰って行った。

残された膨大な時間をどうするかという課題が迫ってくる。

大して楽しみもない。

おかしいな、仕事が続くと、家に帰ってのんびりしたいってあんなに思うのに、

今晩はひとりでいるのがもうしんどい。

今日は特に何かに没頭していたかった。

昨日観た映画のせいだ。少年たちと過ごせる母親の喜びを、奥の方で受け止めてしまった。

 

それで私が今晩したことは、

野田俊作ライブラリを30分間分文字起こしした。

『The story of Doctor Dolittle』 を9章まで読んだ。

アドラー心理学の勉強も、英語の勉強も、私のすべきこと。

本当はドイツ語もすべきことだけど。最近全然していない。

とはいえ、今日は意外と進めることができた。

現実逃避の手段としてはマシな方だろう。

 

 

ドリトル先生は、子どもの頃夢中になって読んだ本だ。

金曜ロードショーフリークの次男が、先週観たらしい。

原作とはあまりにかけ離れていたようだったが、面白かったと言うので

次図書館に行ったら借りて読もうねと話をした。

 

私は、どうしてもアドラーの姿をドリトル先生に重ねてしまうのだ。

貧しい少年を「スタビンズ君」と、大人のように呼ぶところや

動物たちの話を「聴く」ことによって、動物たちの不具合を工夫して癒すところ、

人々の常識に縛られずに、自分の良いと信じたことを為すところ。

生き物全てへの温かい眼差し。

この物語が、動物たちと人間とを同じ目線で見ようとするひとりの人間が、

西洋社会で生まれたということに、私は大きな意味があると思うようになった。

古代から近代までのキリスト教の、人間と他の生き物とを区別する思想は

未だに常識ではあるかもしれないけれど、それを超える考え方も、世の中に、ちゃんとある位置を占めているのだと思う。

それは児童文学や、もっと小さい年齢の子どもたちのための絵本の中に、ことを荒立てないように隠されているのかもしれないけれど。

そして日本人は、物語に流れている生き物全体への温かい眼差しを感じ取って、

様々な本を日本の子どもたちのためにと訳し、出版してきた。

 

子どもたちの未来を考えたときに、残せるものは、書物であるように思っている。

もう、私は古すぎるのかもしれないけれど。

これから先、紙の本はどんどん居場所を失っていくのだろうけれど。

でも、ひとりで本に向き合って、本に入り込んで、本にかじりつくことで、そうしなければ得られないものがあると思う。

私たち大人が、本の価値を低めているのではないだろうか。

私たちがあまりにスマホタブレットにのめり込むから、子どもたちも同じようにしているのだと思う。

確かに便利になった。確かにいくらでも快楽を得られるようになった。

あっという間に時間が過ぎていくようになった。

大量に流れ込んでくる情報を、自分で咀嚼する時間などなくなった。

私もあまりにスマホに時間を奪われていたと反省している。

それで本を読み出したら、思った以上に時間の流れがゆっくりになった。

 

私の子どもたちもゲームを知ってしまったし、YouTubeで色々なものを見ている。

それを止めることはもうできない。

でも、そこでは手に入れられない楽しさを、良さを、本の世界を共有すること、映画や音楽や絵画の世界を共有することで知ってもらえたらいいのだと思うようになった。

一緒に本を読んで、一緒に映画を観て、それについて語り合うことで、

私たちは同じ物語を生きることができるようになる。

私が学んできたことを、同じようにして子どもたちも学ぶことができるのではないかと思っている。

幸せなのは、私も子どもたちと一緒に、再び学ぶことができることだ。

 

ただし、こうやって一緒に学べる時間は、多分、そんなに長くはない。

今を逃してはできなくなってしまう。

 

 

君たちはどう生きるか』の映画の、大叔父さんが、

あまりにニーチェだよねって長男と言っていたら、

次男はアインシュタインだよって言った。

近代の西洋文明に絶望して精神を病んでしまったニーチェから、

原爆を作ってしまったことに絶望をした後、科学者たちが世界平和のために何ができるかと考えるようになったアインシュタインへ。

大叔父さんの変化は、そんな、『君たちはどう生きるか』という問いに対する答えの一つなのかもしれないねって、

私たち3人は導き出した。

 

次男と夏休みに博物館のアインシュタイン展に行ってみて、よかったんだなって思えた。

説明をしっかり理解しようとすると難解すぎて、

アインシュタイの発見を知るという体験コーナーは、デフォルメされ過ぎていて、

コンセプトとか心意気は素敵だと思ったけれど、私としては不完全燃焼だった。

でも次男は、私がパネルを見ながらした雑な解説を彼なりに受け取ってくれて、

世界のために自分の研究成果を生かそうとしたすげえ人、学校の勉強は嫌いだったけど好きなことを勉強し続けた人、として尊敬しているようだ。

 

今日、野田俊作ライブラリ「しあわせに生きる」を聞いていると、

ちょうど、偉人や市井の人々の伝記や生き様から学ぶことの大切さを野田先生が語っておられた。

 

全てが、意図せずに私が触れていく全てが、こうやって結びついていく。

私は子どもたちのために、私のできる限りのよいことをできているのではないかな、と思えた。

私がより学ぶことで、子どもたちのより良い学びに影響を与えることができるのだろう。

そう思うと、私ひとりの時間を無駄に過ごすことはやめられると思う。

 

 

 

 

最近、勉強に自信が持てなくなって、成績が落ちてきているという噂の長男と、今日は1時間半ほどガッツリ数学の勉強をした。

同じ年代の職場の子どもたちを教えているからわかるけれど、確かに長男は勉強不足であることがわかった。

でも、賢い彼は私の言うことをすぐに理解してくれて、集中して問題をたくさん解いていく中で、きちんと解けるようになった。

こんなことなら私は夏休みの間に特訓してあげたらよかったのに、と過保護に思ったが、いや、違うなと思った。

ようやく機が熟したのだ。

私が母親ペルソナを離れて、塾の先生ペルソナを長男に対して使えるようになるためには、

おそらく『君たちはどう生きるか』を長男と一緒に観ることが必要だった。

 

職場の子どもたちは可愛いし、とても大切だけれど、でもやっぱり自分の子どもは一番可愛いもの。

この強い強い愛情が、私の感情を揺さぶる。

あなたならもっとできるでしょ、もっと頑張れるでしょって、長男を追い詰めてしまう。

私にはそうしない自信がなかったから、そういえば、長男の中学受験について、私は一切口出しをしなかった。

それは、彼の課題を彼にお任せしていたという美しい言葉よりも、彼の勇気くじきをしないためにという、私の勇気のなさの方が、正確な表現であるように思う。

まあ、長男はとても真剣に受験勉強に取り組んでいたから、介入をせずにいてよかったと思うけれど、でも、もう少し私にできることを尋ねてみてもよかったかもしれない。

でももう今なら、私は、長男と勉強のことについて相談ができて、そして一緒に勉強することができる。

ここまで来るのに、時間かかったなあ。

 

 

「僕、お母さんに対しての反抗期は小学校1年生の時にもう終わったと思うんだけど、お父さんに対しては、ちょっとわかんない…」

と、勉強が終わってから長男がぽつりと言った。

そりゃそうだろうね。

私だって、ここまで、崖っぷちのギリギリまで来ないと、あなたに対して、本当にあなたを信頼して尊敬して、平等な立場で向き合うこと、できなかったもの。

あなたのお父さんは、普通の立派ないい人だから。

君たちはどう生きるか』のお父さんによく似ているよねって、長男と次男が言った。

子ども思いでいい人で、立派な人なんだけど、過保護過ぎて、ちょっと自分勝手だよねって。

私もその通りだと思った。

だからね、あなたがお父さんに対して反抗期になったとしても、それは多分、あなたが順調に発達しているっていうことの証なんだろうと思うよ。

大変だなと思う。

でも、それはあなたとお父さんで乗り越えていくべきことなんだと思う。

私はあなたのお父さんとその点について一緒にやっていくことができないと判断して、違う道を選んだから、あなたの気持ちはよくわかる。

よくわかるけれど、そのことについて私は口を出してはいけないと思うから。

 

親のことで苦労させてしまうのは申し訳ないけれど、でも親も完璧ではない。

親を乗り越えていってほしい。

その過程で、大人になっていくんだと思う。

支配的な大きな存在としての父親がいるということ、この少年たちにとってはとても良いことだと思う。

たくましく育っていけるから。

今の時代、これはとても貴重なことだと思う。

私は、あなたのこの大変な境遇に、でも、感謝しようと思う。

あなたに起きるすべてのことはきっと、良いことなんだよ。

 

 

Tower

吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』は大学生のときに読んで、自分に子どもができたら読ませてあげなければと思った。

まだ自分が母親になるなんて想像できない日のことだったけれど。

昨年、長男に勧めてみたら読み始めてくれた。彼には珍しく、途中で止まってしまったようだったけれど。少し読みにくいのは確かだ。

2ヶ月ほど前、次男に勧めてみたら、読んでというので、読み聞かせを始めた。

相当読み聞かせには向かない本ではあるが、少しずつ進んで、今3分の1ぐらい読んだ。

どこまで理解できているかわからないが、次男なりに楽しみながら、受け止めてくれている。

この本で叔父さんがコペル君に語りかけ、コペル君が体験し言葉にしていく人間同士のつながり、社会の仕組み、友情、勉強する意味、貧乏についてなど、感想を述べてくれる。

友だちとのエピソードは劇的な場面も多く、長男は隣で私の言葉に合わせてぬいぐるみを操る。

「3D化されててめちゃわかりやすい!」と次男に好評だ 笑

叔父さんが中学生のコペル君に、真剣に向き合って、ノートに手紙を書く。

人として学んでいくべきことを、あたたかく熱く書いてあり、こんな大人が側にいてくれたらと思う。

流石にノートの部分はひじょうに抽象的なものなので、ぬいぐるみ劇化はできないが、次男も熱心に耳を傾けてくれる。

 

大人は大人らしくなければならないなと思う。

それは、自分が親であるかどうかとは全く関係なく、子どもたちを育てていく役割を担い、

子どもたちに学びを伝えていく過程で、若者は大人になっていけるのだろう。

人間の歴史は、文化は、学問は、技術は、そうやって大人から若者へ、子どもへと手渡していくことで続き、発達してきた。

そうやって人間は生き延びてきた。

私たち大人が子どもたちに対してすべきことは、決して彼らを甘やかすことではないとあらためて思う。

子どもたちは先の見えない未来を切り拓き、自分たちの手で世界を作っていかなければならないから。

そのための勇気を持ってもらえるように、大人は子どもたちを愛し、たくさんのことを伝えていかなければならない。

 

 

 

今日は前々から約束していた通り、子どもたちと3人でジブリの『君たちはどう生きるか』の映画を観に行った。

(以下、少しネタバレを含みます。)

次男が観に行きたいと言ったから。

どんな映画なのかという告知が一切なかったそうで、私は口コミを見て大体のところを把握した。

賛否両論、真っ二つに評価が分かれている。

あの本とは内容が全然違うらしい。

戦争の話らしい。

お母さんが死ぬらしい。

それでもいいの?と聞くと、ふたりともちょっとだけためらったが、

「まあ、お母さんと観に行くなら心配はない」とのことで、観に行くのを楽しみにしていた。

仕事の都合で、今日行くなら夜。明日なら日中観に行けるけどと言うと、夜に行こう!と、意気込んでいた。

早めに夜ご飯をすませてから、ますます非日常感の増す、レトロな映画館へ。

 

感想はまたあらためて書くような気がしている。

3人で観に行けてよかったなと思った。

映画が終わったとき、次男が「あー、オレ、ジブリでこれが一番好きだわー」としみじみ言った。

長男もすごく良かったと言っていた。

私も、同感だった。

私がこの子どもたちの母親でいれて、本当にありがたいなと思えた。

 

生きていくのは辛いことがたくさんあって、でも自分でそれらを乗り越えて行かなければならない。

他人から見れば何も起きていないようだとしても、本人にとっての大冒険、大変化が、このありふれた日常の中に起こっている。

その冒険は、大変だけれど、決してひとりの冒険ではない。

そんなこと。メッセージとして受け取った。

そういう意味では、元の本『君たちはどう生きるか』のメッセージと、私には同じだと思えた。

それから、この元の本も、とても印象的に映画の中に登場していた。

私たち3人にとって、それはとてもとても嬉しいことだった。

なぜかということは、これから映画を観られる方のために秘密にしておく。

 

宮崎駿の今までの映画に散りばめられた、彼の好きなものたちがコラージュされていた。

真っ暗な帰り道、3人で、あの場面は、あのキャラクターは、あの仕掛けは、あのイメージは、

それぞれどの映画のようだったかということをおしゃべりしながら歩いた。

色とりどりのガラス片を並べて、ひとつのモザイク絵を作っていく作業のようだった。

そう、この映画に絶対的全体論的世界を感じてしまったのだった。

 

 

 

昨年末頃から、象徴を読むということを勉強し始めている。

絵画だったり、タロットだったり。

それから、映画についての本も読んだりした。

私は今まで、映像作品を観るとき、物語の筋を追うことがメインだったと思う。

いや、映像の美しさを楽しみ、音楽に浸っていたけれど、

シーンに込められた意味や、隠された意味や意図というものを、ほとんど感受できずにいたと思う。

今回、そういう視点も持って初めて映画を鑑賞することができた気がする。

 

だから、今回のこの記事のタイトルは、Tower。

予期せぬ出来事に遭遇し、窮地に立たされる。

破壊と再生。

思春期って、若者って、そういう時期だ。

長男にエールを送りたい。

いつでも私は、あなたの側にいるよ。

 

Nostalgia

音楽によって気分が左右される。

それを使って、音楽によって気分をコントロールできるようになった。

 

どうしても気分が落ち込む時は、最近知ったCalmeraに頼っている。

書けない原稿も、乗り気にならない出勤準備もお弁当作りも、

どうしてだったんだろうと思うぐらい、CalmeraをBGMにしていると体が動いて、何気なく終わってしまう。

このバンドも、最近好きなインストゥルメンタルバンドのひとつ。

YouTubeは私の好みを推測して、色々勧めてくれるからありがたい。

ドラム、ギター、ベース、キーボードに、トランペット、サックス、トロンボーン

カッコいいのだけど、どこか懐かしい。

私の父のバンドも演奏していたニューオーリンズジャズなど、どこかで聴いたことのあるようなフレーズが、所々聴こえてくる。

昭和の歌謡曲の雰囲気も、少しある。

相当カッコいいオリジナルの曲なのだけど、でもちょっとだけ古臭くてダサいところがある。

きっと関西弁のイントネーションなのだろう。ベタっていうのかな。

歌詞はないから、何と言ったらいいのかわからないが、とにかくこのバンドのフレージングは関西弁、というか大阪弁なのだ。

(調べてみたら、今年5月で活動休止しているとのこと。残念だ。)

 

変えられないものと、変えられるものがある。

例えば私が音に過敏であること、関西弁ネイティブであること、気分の波が激しいことなどは、変えられない。

でも、好きな音楽を見つけて気分を明るくする工夫は、私の変えられる部分だ。

明るい気分で笑顔で出勤すると、利用者さんたちも子どもたちも職員さんたちも、私と関わることを楽しんでくださる…ような気がしている。

 

脳内でCalmeraを流していると、体が軽やかになり、気をつけないと鼻歌を歌っていまいそうになるぐらい、自動的に私の仕事は進んでいく。

深く考えずに様々なことがこなせる。

利用者さんの愚痴を笑顔で聴き続けられる。

泣き止まない赤ちゃんを抱っこして、鼻歌を歌って落ち着かせられる。

施設内の掃除も鼻歌を歌いながら、気づいたら終わっている。

 

 

宿題しないもんっていう子に、そうなんだね、って笑顔で返事できる。

そうしたら、しばらくして「やっぱりやる。Mさんこっち来て。見てて。」と呼んでくれた。

「はいはい。」

「あのな、今日は漢ドと算数のプリント。Mさん、プリント読んどいて。」

プリントの答えを考えとけってこと?相変わらず、私は奴隷扱いだな。

でも、いい。喜んで奴隷をさせていただこう。

まず私がきっちりと奴隷をしたら、私たちは対等で平等な友だちになれるって信じているから。

 

だってこの前、夜の21時ぐらいに1人で事務室に来た時、私たちはとっても平等な位置にいる仲間だったもの。

「Mさん、今ひとり?」

「うん、そうだよ。」

「あー、じゃあ出れないんだね。」

「うん、今は出れないわ。どうしたの?」

「あのな、外の自動販売機に行きたいけ、ついてきて欲しかったんだけどな、あのな、怖いから、そこの窓開けててくれる?」

こちらの、事務室を空けてはいけないという事情をよくわかってくれていた。

とても嬉しかった。

「ついて行けなくてごめんね。わかってくれてありがとう。窓開けて見ててあげるね。あと、Sちゃん、いいもの貸してあげる。」

「なあに?」

「はい、どうぞ!」明るい懐中電灯を手渡した。

「わあ!ありがとう!行ってくる!」

確かに事務室の外、花壇の前の通路は電灯がなくて暗い。

事務室の窓から身を乗り出して、Sちゃんに話しかけた。

「見える?」

「うん、見える見える。」

ジュースを買って、「ありがと」と可愛い笑顔で懐中電灯を返してくれた。

エレベーターに乗って、また先日のように見えなくなるまで手を振り合った。

ものすごく荒ぶって大変なこともあるけれど、彼女はとても賢くて優しくて、お話が上手で、協力してくれる人だ。

私たちは小さなことでもこうやって協力し合うことができる。

相手のために手を差し出し合って手を繋ぐことって、こんなにあたたかい気持ちになるんだなって、あの夜、Sちゃんのおかげで感じられた。

 

Sちゃんは宿題と一緒に新しいサメのぬいぐるみを持ってきていた。

「ねえ、さっきこの子、なんか声出してなかった?」

「そうだで。こうするの!」Sちゃんがぬいぐるみの口をパクパクさせると、

「Baby, Shark la la la la la…♪」と歌い出した。

「これでな、英語覚えれるんだで。」

ヘえ〜と言いながら、しばらくぬいぐるみで遊んだ。

宿題をさせるということよりも、私は今、この子と一緒にいることを楽しもうって思えていた。そのことの方が、ずっと大切なように思えていた。

するとSちゃんは漢ドとノートを広げて、無茶苦茶な英語の歌を気持ちよさそうに歌いながら、適当な漢字を書き始めた。

ほんっとうに、適当すぎるので、笑ってしまった。

「言」は口を書いて、上に横棒を積み上げていく。

「園」は、囲いをぐるっと書いた後、中身が半分外に飛び出ている。というか、囲いの外に足が突き出ている。

「Sちゃん、ちょっとこれ、あまりに適当すぎない? 笑」

「いいの〜」

尚も無茶苦茶な歌を歌いながら、無茶苦茶な字を書いていく。

でも、ちゃんとわかっている様子。漢字は読めているし、もっと丁寧に書くこともできる。

今日は、これぞやっつけ仕事というような適当さで、やりたいみたいだった。

宿題に取り組もうというところは、素晴らしいところだ。

そして、私の発言に怒り出さないところも、素晴らしいところだ。

自分が適当にやっているということもよくわかっている。

 

私は少し考えた。

普通の大人は、ちゃんと書きなさいって言うよね。真面目にやりなさいって言うよね。

でもそんなことを言って、書き直すようなSちゃんではない。

私はSちゃんの良いところを見ていたい。それを伝えたい。

今の私には、それができる気がした。

 

「でーきたっ♪」

「わあ、早いね!本当はSちゃんがもっと丁寧に書けるの知ってるけど、これでいいの?」

「うん、いいの!」

「そっか 笑」

「うん。次はプリント。」

わからなくなったら質問してくれる。理解してくれた。

でも計算間違いに気付いても、「いいの!」と言って、訂正しない。

「書いてある答えは違うけど、私はSちゃんがちゃんとわかってることわかったよ。ちゃんとわかっているのに、もったいないな。」と言うと、

嬉しそうに笑って、「でもいいの!」と言った。

「そっか。まあ、丸がもらえなくても、Sちゃんがわかったんだから、いっか。」

「うん、そう、そう。」

嬉しそうに、また無茶苦茶な歌を歌いながら、最後まで解き終わった。

「できた♪」

「全部できたね。適当すぎるんじゃないとか、言いたいことはありますが、まあ、私が言ったところで聞き入れてもらえそうにないしね…」

Sちゃんが手を止めて私をじっと見る。

「お疲れさま。がんばったね。今日の宿題は終わりかな?」

「うん、終わり!」

ちょっと驚いて目を見張って、嬉しそうに机の上を片付け始めた。

 

この子は手を抜くのが上手なのだ。やりたいことは丁寧にできるし、集中力もとてもある。

やりたくないこと、でもすべきことを、今日はSちゃんなりにがんばったと、それは本当にそうだと思う。

普段はやりたくないことを放ったらかしにしがちなことを思うと、その取り組みがどれほど適当であったとしても、これは素晴らしいことだって、思えた。

そんな風に思えるようになった私の変化に、私は驚いた。

甘くなったのだろうか。

いや、理想は捨てていない。

スモールステップの刻み方が、細かくなったのだろう。

小さな小さな変化に気づき、喜べるようになったのだろう。

 

しかしこの私の変化が、Sちゃんにもたらしたものは大きいと思う。

私はもう奴隷ではなくなっていたから。

今日も「Mさん、来て。」と言う第一声は相変わらず奴隷への命令に聞こえたけれど、

「お部屋まで一緒に来てくれる?」と、お願いしてくれた。

今日は私がTシャツじゃなくてブラウスを着ていることに気付いてくれて、

「Mさん、今日はどこかに行ってたの?出張とか?」

と、大人の女子っぽいおしゃべりをしてくれた。

「お洋服のこととか、髪型のこととか、すぐに気付いてくれるね。ありがと。」

と、お礼を言った。

「うん」と、すまし顔で応えてくれた。

 

 

深く考えなければならないこともある。

でも、明るい音楽をBGMにして、頭のどこかを鈍らせて、気分良く、調子よく、

みんなの良いところをたくさん見つけて言葉にしていくこと、

いいんじゃないかなと思う。

 

やっぱり、私はトランペットが好きだ。

バカ明るく突き抜けた音色。

どこまでも響く、華やかな音。

皆と溶け合って皆を包み込む、柔らかく豊かな音。

私の理想は、多分それなんだろう。

 

Calmeraを聴いていると、カッコいいね!と、次男が気に入ってくれた。

派手なパフォーマンス好きの次男は、どんな楽器を選ぶのかな。

みんなを楽しませたいという次男の素晴らしいところも、見えてきた。

 

 

誰もが、それぞれに素晴らしいところをたくさんたくさん持っている。

そのそれぞれの良さを、重ねて響かせ合えたらいいなと思う。音楽のように。

同時に、同じ空間で、それぞれ違った楽譜を違った楽器で演奏するからこそ、素晴らしい音楽が完成する。

私たちはそれぞれに違うから、素晴らしい音楽を作っていけるんだ。

だから私の尺度にはまらない全ての人たちとも、私はきっと場面場面で協力することができるはずだ。

 

この職場で、私は自分の良さを全然生かせないな、仕方ない、修行なのだからと思っていたけれど、

やっぱり、私はトランペットを持っていようと思う。

音楽は生きるための必需品ではないだろう。

でも、音楽があれば生きていけるだろう。

ただ明るいだけではない、様々な色彩の音楽で、利用者さんたち子どもたちの長い人生のうちのこの瞬間を、彩れたらいい。

いつかこの日々を、懐かしく、あたたかく思い出してもらえたらいい。

 

今晩、退所して数年になる方から電話がかかってきていた。

ベテランの職員さんが優しく、笑ったり慰めたり、励ましたりしながら話を聴いておられた。

その職員さんも知らない退所者さんだったそうだけど、

すぐにPCで退所者情報のページを開いて、確認しながら1時間近くも対応しておられて、

なかなかできることではないなと感動していた。

「疲れたわ〜。Mさんに電話取ってもらったらよかった〜」なんて笑っていたけれど、

私ではあんな風に対応できなかっただろうなと思って、そのように伝えた。

アフターフォローという支援の枠組みよりも、おそらくは外にあるだろうけれど、大切な仕事だ。

職員が入れ替わっていっても、ここで過ごしていたことを思い出して、時々、電話をかけてこられたり、遊びに来られたりする人々がいる。

ちょっと落ち込んだり困ったりして、誰かに話を聴いてほしい時に、思い出す場所。

「私たち」は、いつでもここに居るから。

そのことが、誰かに安らぎを与えられているのなら、誰かを支えているのなら、それはすごいことだなと思う。

「私」自身が大した役に立てなくても、「私たち」の役割は、きっと小さくはない。

そんな大きな物語の中で、生きてみようかなと思えた。

 

現場で起こることはなかなかに大変なことがあって、麻痺していそうな自分が嫌になったりもするけれど、

その麻痺ということを、私たちはどんな時でも明るい音楽を奏でられるんだという風に変えて、私はトランペットを吹いてみようと思う。

 

 

I have no voice to save you

足りないものを数えてしまう。

今日はどうもそういう日のようだ。

好きな音楽を聴いていても、自分は歌が上手に歌えない、楽器が弾けないって落ち込む。

ベースラインが聴きたいのに、探しても探しても見つからない。

歌の練習を、ひとりでしてみる。

馬鹿げているように思えてきて、止めてしまう。

時間の無駄だったと思ってまた落ち込む。

好きな美術の番組を見ていても、自分は描けない、絵の見方もよくわかっていないって落ち込む。

自分の教養のなさにがっかりする。

そうやって私が私をみじめにさせていく。

 

ただし私は、この落ち込みに大して意味がないことに気づいてしまっているから

もう以前のようにこの劣等感にエネルギーを浪費することはなくなった。

そしてこの劣等感の目的も、薄々気づいてはいる。

すべきことをすることから逃げようとしているのだろう。

どうだ、ここまで自分で言語化してしまえば、もう逃げられなくなる。

 

 

疲れているのは本当だ。

職場では、自分の行動の影響が見えるようになった。

私はけっこう良い仕事ができているようだ。

仕事のできる人になってきたようだ。

でもそれは、全然嬉しくないことだった。

なぜならそれは、虐待の痕跡の発見をしたことだったりするから。

嫌な職場だ。

私の注意深い観察力と洞察力というストレンクスを使って、嫌なことを見つけるという貢献。

見つけたところで、私に今すぐできることはない。

上司に報告し、上司が関連機関と連携を取って、界隈では様々な動きが起きる。

けれどそれが、あの子のために、あの親のために、何か良い作用を及ぼすのか、私にはわからない。

ただ、密室に隠されたままではなくなった。

だからといって何が変わるのかわからないけれど。

 

知らないでいたい現実。

見ないフリをしていたい現実。

やっぱり、何の修行なのかと思ってしまう。

知らないでいれたらよかったのに。

見ないフリをできればよかったのに。

 

どうしようもないことばかりが起きる。

我々はただ情報を集めているだけのような気がする。

このままでいいんですか?と関係機関からはせっつかれるが、

うまくいかないものはうまくいかないのだ。どうしようもないことはどうしようもない。

私たちはただ、みなさん努力されているんですけど

就職はまだ決まりませんと言う。

学校には行けませんと言う。

お金は貯まりませんと言う。

そんなことばかりしている。

 

様々なところから、職員さんたちしっかりしてよっていう圧を感じるけれど、

利用者さんたちの人生を私たちが代わりに生きることはできない。

私たちは一番近くにいるという、ただただそういう存在なのだと思う。

利用者さんたちの目となり耳となり、口となるだけ。

病院やお役所や学校などに、情報を伝達して、情報を受け取って、利用者さんたちに繋ぐだけ。

その役目を、愛情を持って行うだけ。

そこに良い作用があるのかどうか、何周か回って、またわからなくなってしまった。

 

ただ話を聞くこと、傾聴することが心理的治療になると無邪気に思えている人たちはいいなと思う。

自分のしていることを良いことだと信じていられることが、羨ましい。

 

小さな良いことを探している。

小さな笑顔を作ろうとしている。

良い時間を作ろうとしている。

そのことを無駄とは思わない。

けれど、それはよく言っても延命措置であって、根本的な解決ではない。

そして、勇気づけられているのかどうかもわからない。

甘やかしているだけになっていないだろうか。

私にはわからない。

 

事務作業はだいぶ慣れてきた。

それは誰かがしなければならない仕事だ。

意味はあるだろう。

薬の管理も。不安定な精神状態の人々のおしゃべりのお相手も。

そうやって自分の役割に意味を見いだせることを数え上げている。

 

 

 

こういう現実から逃れようと思って、音楽や美術に浸ろうとするのだけれど、

自分の才能の無さという、またそこで見たくない現実に向き合うことになるのだった。

そして唯一の得意なことと言えそうな言語表現についても、

書かなければならないものが色々あるのだけれど…

今私はこうやって、一番書かなくてよいものを書いている。

 

 

 

子どもたちが生まれて、私の人生は変わった。

子どもたちと離れて、私の人生は変わった。

後悔がないと言えば嘘になるが、

今こうして彼らとの新しい生活を作れていることを感謝している。

私が選んだこの人生を誇らしく思う。自由を手にしていると思う。

入道雲に向かって車を走らせながら、確かに昼間、私はそんな風に思えていた。

でも今の私はまるで別人のようだ。

一晩で萎びてしまったサボテンの花が目に浮かぶ。

いや、違う。そうやって終わって、また新しく、生まれ変わるのだ。

世界はそうやって回っているのだ。

 

 

 

いや、ダメだな。

アドラーの本を読み、野田先生の論文を読み、ライブラリを聴くほどに、

(最近は空き時間に職場でも読んでいるのだけれど)

勉強したことを裏切り続けているような気がしている。

真面目なのは私のストレンクスではあるが、

生真面目すぎると、自分の努力をまだまだ足りない、良い成果が出ないと意味などないと批判し始めるので、困ったもんだ。

 

…このご時世で、こんな浮世離れした人間が、なんとかひとりで暮らしていけているのだから、

私はそれなりに社会に適応して自立して生きているとみなしていいと思うけれど。

誰かを蹴落としたりしようとせずに、いつも人のお役に立とうと努めているわけだし。

そしてそれなりに遊んだり楽しんだりしながら、無理せず生きているのだから、

私の理想にはほど遠くてもね、悪くはないと思う。

 

もしも私が幸せであることに罪悪感を持っているのであれば、それは正義感のよくない使い方だろう。

だって幸せな人と一緒でなければ、人は幸せになれないのだもの。

私が幸せなまま誰かのお手伝いをすることが、その方を幸せにできる唯一の方法でしょう。

たとえその方がどんな境遇にあるとしても。

そして私の何よりの強みは、私がどんな境遇にあっても、私は幸せでいられるって信じていることだ。

あの一日限りのサボテンの花を、満開の花たちを見れたことが幸運だったのだ。

あの芳しい花は、私のものだ。心の中で、いつまでも咲き続ける。

過去が変えられないことを嘆くのではなく、美しい過去を糧にしたい。

 

 

as if

今月はオンラインのアドラー心理学の勉強会にたくさん参加できている。

長期療養中だった同僚の職員さんがめでたく復帰されたから、私のシフトにも余裕が出てきたことが関係していると思う。

その方が休んでいる間、その方がいろんな仕事を担ってくださっていたことをありがたく感じていたし、

他の職員さんたちとカバーし合って働くことで、よりチームとしての一体感を感じられた。

みんな、心から帰ってきてくれてよかった!って思えているし、

その方ご自身も、帰ってこれたことを喜んでおられるように見える。

でもまさか、その方は自分が職場復帰したことで、私の勉強が充実するようになったなんて思いもよらないだろうから、

あることが何に影響しているかなんて、ほんとに分からないことだらけだなと面白く思う。

 

私たちは世界に組み込まれている。

私の職場の人たちとの日常も、私のアドラーを学び合う仲間たちとの冒険も、私の子どもたちとの生活も、

全て私を介して結びついていて、互いの波紋が互いに響き合って相互に作用し合っている。

私は、世界をそうであるかのようにとらえている。

 

そうすると、私は自分を絶望の淵から救い出すことができる。

私が誰かの幸せを祈ることが、決して無駄ではないと思えるから。

本当に、そうだ。

偶然なんてない。

だからきっと、ずっと流していたYouTubeから、今この瞬間、Butterfly Effectという曲が流れ始めたのも、偶然ではないのだろう。

BGMとして素晴らしいタイミングと選曲だ。

こうやって、世界からのメッセージを私は受け取ろうとしている。

まるでまるで、リニアル(単線的)な物質主義的文明と違う世界観で生きている。

 

こういった世界観のことも、フレームワークと呼ぶようだ。

ある枠組み。

それは仮想的で、つまり変更可能なものだ。

ある枠組みを意図的に変更しようとする操作が、カウンセリングなのではないかなと思う。

考え方を変えること。

事実に対する意味づけを変えること。

物語を変えること。

それら全て、フレームワークという考え方から説明することもできると思う。

そして、全てのフレームワークは仮想的で、変更可能であるという前提を認めるということは、

アドラー心理学の基本前提の仮想論に示されている。

 

 

社会適応が良いということは、ある一つのフレームワークにしっかりとはまれる、

求められる役割を求められたように演じることができる、ということなのかもしれない。

良い生徒、良い子ども、良い社会人、良い妻、良い夫、良い母、良い嫁、などなど。

書いていて息苦しくなる私は、やはり社会適応はあまり良い方ではないんだろう。

しかも日本の社会では、そのフレームワークははっきりと言語化されていなくて、空気を読みながらはまっていくことを望まれがちだから、なかなかに難しい。

それならば、どうして私が今良い職員という役割にあまり苦労せずはまれているかというと、

それは仕事を、この施設職員という役割を演じること、ロールプレイだと思っているからに違いない。

つまりこれはひとつのフレームワークであって、

私には他にもいくつものフレームワークがあって、私の全てがこの役割に縛られるわけでもないことや、

必ずしも求められる役割を演じなくても、私は良い職員ではなくて出来の悪い職員でいることも選べることを、

そうであるかのように信じているからだ。

だから私は、自由でいられる。

自由とはつまり、私が選べるということだ。

 

 

ただ、この世界というのは私に対して、ひっきりなしに要請を送ってくる。

否応なしに課題に直面させられる。

 

カウンセリングに来られるクライアントさんは、その課題に困って来られる。

どんな壮大な悲劇、どんな絡み合った複雑な事態であっても、

カウンセリングで行うことは、その課題に取り組むかどうするか、それをクライアントさんが選ぶお手伝いをするだけだ。

選ぶのはクライアントさん。

そしてもしも取り組むのなら、どうやって取り組むかを決めるお手伝いをする。

決めるのはクライアントさん。

 

 

 

ひとつの物事に対して、複数のフレームワークを作ることができる。

私たちは、いつでも好きなフレームワークを選ぶことができる。

サイコドラマの劇的なところは、その複数のフレームワークを、極端なお芝居で表現してみせるところにあるのだと思う。

ひとつところに居ながら、ある瞬間を過ごしながら、私は同時にいくつものフレームワークを重ね合わせて生きることも、きっとできる。

それがサイコドラマの面白さなのだと思う。

私と相手役は、例えば娘と母でありながら、同時に侍女と姫でもあるのだ。

 

そのフレームワークの中である役割を演じるとき、ペルソナを使っているのだろう。

手持ちのペルソナからあまりにかけ離れた役割は、ちょっと演じることが難しい。

だから、ライフスタイルにはある許容範囲があることもわかる。

しかし、治療というのは、そのライフスタイルの許容範囲を超えてみるところにあるのだろうな。

留まり続けたい、フレームワークを固定しておきたいライフスタイルに、

フレームワークはいつだってどんなものだって変更可能なんだよって、揺さぶりをかけることが治療なのだろう。

 

柔軟であること。受け入れること。

それは、世界と自分が一体であることを信じていれば、きっと怖くないと思う。

すべては私の思い込みなのだから。

 

belonging

秋の気配を感じてしまった。

夜歩いていると、虫の音が聞こえてきた。

この日々に思い入れなど持っていないはずなのに、ただ時間を費やしているだけのようなのに、

この夏が終わっていくことを少し寂しいと思った。

 

祭りが終わると、夏は終わっていく。

40人ほどの会社の連では、ただ黙々と踊りの練習をするばかりで、一緒に踊る人たちの名前を覚えることもなかった。

祭りの日は台風が接近する直前で、怪しい風と分厚い雲に覆われていた。

だんだんと空が暗くなる中を、2時間半踊った。

いつも通る道が違ったところのように見える。

上司たちと先輩職員さん、たくさんの利用者さんと子どもたちが私を見つけて駆け寄ってきてくれた。

2000人もの踊り子の中から私を見つけてくれたこと、ひとりぼっちだと思っていたのにこんなにたくさんの仲間がいたことに気づけたこと、

とても不思議なご縁だなと思い、感謝した。

望んで来たわけではないのに、いつの間にか私はこんなにもここに組み込まれてしまった。

踊り終わって施設に着替えに帰ると、勤務の職員さんたちに労ってもらった。

帰宅すると、見に来てくださった上司と先輩から、メールが届いていた。

見に行ったんだけど見つけられなかったんだ、とすまなそうに言ってくれた子がいた。

声はかけなかったけど、見てたよと言ってくれた子がいた。

単調な生活の中で、華やかな祭りの果たす役割があることを知った。

ひとつの楽しみをわかちあえたことが嬉しかった。

 

 

 

夏休みだから、子どもたちが頻繁に泊まりに来てくれる。

友だち親子と一緒に遊ぶ時間も多い。

久しぶりに子どもたちと一緒に帰省することもできた。

夏休みだ。

 

誰かのお世話をしながら、一日一日が過ぎていく。

私自身の達成感や成長の喜びを、強烈な喜びを実感することなく。

ああでも、何でもない会話をしながら、飾らない食べ物を食べながら、私と居ることを喜んでくれる人たちと過ごす時間は

とても大切なものだと思う。

 

 

本当は違うのかもしれないけれど、

不安になって、私とおしゃべりすることで落ち着いていく利用者さんたちと居ると、

私の仕事はこれなのかなと思ってしまう。

テレビを眺めながら、CMの焼きビーフンが美味しそうっておしゃべりして、じゃあ一緒に作りましょうかって約束をしたり、

このマスコット可愛いですねって言ったら、そうでしょ、珍しく買ってしまったんですよ、でも私自分でも小物作るの好きでね…って見せてくれたり、

ひとりぼっちだと思って沈んでいた彼女たちが、急に笑顔になっておしゃべりをし始めてくれるのが嬉しい。

 

 

私生活にしても子どもたちのことにしてもカウンセリングにしても、仕事についてももちろん、うまくいかないことばかりに思えるけれど

まあ、こんなものなのだろう。

現実は現実としてただあって、それに色を付けているのは私の心次第なのだ。

 

明け方のテンション。誰もいない事務室。別世界を行き来する夜勤日。

最近は、できるだけ夜勤中に本を読むようにしている。

アドラーの子どものカウンセリングを読んでいると、深く落ち込むと同時に、小さな小さな信頼を積み重ねていくしかないんだとわかる。

そうだ、私は目標が高すぎるんだった。

私が目指しているのはアドラーという、野田先生という、大魔法使いだ。

自分のしていることと引き比べて、追いつかなくて当然であろう。

だけどそんな不十分な私であるからこそ、もしかしたら大魔法使いには手に入れられなかったぐらいに、

たくさんの応援し見守り支えてくれる仲間がいるのかもしれない。

小さい存在である私のめぐり合わせにも、感謝してみよう。

 

 

 

帰り道、ある家の庭先でサボテンが大きな白い花を咲かせていた。

6、7つ咲いている。甘い香りが漂っている。

夜の間に咲いて、次の日には枯れてしまう種類だろうか。

不思議な咲き方をするものだと立ち止まってしばらく見つめていた。

亡くなった祖父が、サボテンの花が咲いたと嬉しそうに見せてくれたことを思い出した。

きっと人は思い出の中にも所属できるのだろう。

しかし思い出の中だけに所属していると思ってしまったら、現実が消えてしまいそうだ。

 

 

 

social adaptation

fox capture plan をよく聴いている。

ピアノとコントラバスとドラムの3人のバンド。

弦楽器と演奏していることも多い。

楽器だけなので、余計な言葉がなくて、とても心地良い。

元気のない時に聴くと、元気のない自分でいても幸せであることを思い出せる。

これ以上何かしようと思わないで、漂っていられる。

ひとりの時間が愛しく思えてくる。

 

子どもたちがたくさん来てくれれば来てくれるほどに、帰った後が寂しくなる。

会えない時間が長くなってしまうときは、そんなに寂しいなんて感じないんだけれど。

馴化。

痛みも寂しさも悲しさも違和感も、続くほどに馴れてしまう。

環境への適応戦略として生き物が手に入れた方法なのだろうけれど

私はまだ馴化しきれずにいるようだ。

それは、私がまだこの暮らしを当たり前に思えず新鮮に感じているという表れで

喜ばしいことだと思う。

小さなことに悲しんで、小さなことに喜ぶことができる。

それが私の生活と言葉と身体全てを変えていくように思う。

 

 

 

金髪少女のKちゃんのことについては、たくさんの動きがあった。

オンライン勉強会で、先日の私とKちゃんの権力争いについて聴いてもらった。

すると、平等の位置に戻れるような代替案を見つけることができた。

この子は、自分がどうするべきかはちゃんとわかっている。

でも、今それをする勇気が出ないんだ。

そのように私がKちゃんのことを見ることができれば、

すなわちRe-spect、尊敬することができれば、

私はKちゃんを裁くことなく、彼女を勇気づけるために行動しようと思えただろう。

きっと、「どうすべきなのかはちゃんとわかっているんだね。私に何かお手伝いできることある?」って、聞けると思う。

そして、先生に今日は会いたくはないんですということを伝えられると思う。

 

その後Kちゃんとは何度か会った。

スマホの充電器を貸してほしいと、私の夜勤中に事務室に来たこともあった。

「充電器壊れていて、前借りていたのは昨日返しちゃったからもう一度貸して」と言う。

貸し出し可能な充電器は私には見つけられず、事務室で使っている備品しかないんだけど…と言うと、

ちょっと考えて、「明日の朝返すから、それ貸して」と言った。

「わかった。じゃあ明日の朝、返しに来てね。」と言って、私の席にあった充電器を渡した。

「ありがと。」笑顔で帰って行った。

なんとか、平等の位置に戻れたかな。

根に持たないでいてくれる、さっぱりしたKちゃんのおかげだ。

 

黒い髪の方が、Kちゃんはずっと可愛いのにな。

でもそれは、私の好み。

彼女に学んでほしいこと以外は、彼女にお任せしよう。

…中学生が金髪に染めるということが、周りにとってどういう意味を持つか、ということは、

多分彼女は私以上によくわかった上でそうしているんだろうと思う。

彼女は、可愛くなりたいと思って髪を染めたわけではないらしいから。

「友だちが茶髪にしてていいなって思って、染めたくなった」って言ってくれたとき、

「友だちが可愛くなってたから?」って尋ねたら、

「いや、そうは思わなかったけど…」って答えたから 笑

だからこの件については、私は何も言うべきことはない。

夏休みからって言っていたのを夏休み前に染めたということだけが、約束を守らなかった点で、そのことについては以前伝えることができたから、もう十分だ。

 

Kちゃんはこの週末、施設の海の合宿行事にも参加していた。

合宿は、職員と子どもたちだけの行事だ。普段できない自然体験をして、集団で楽しんで、様々なことを学んでもらう。

大きな成長が見られる良い場だ。

今年は私は留守番だったが、また引率する機会があればいいなと思っている。(職員の方は体力勝負ではあるが…)

 

それから多分、昨晩からKちゃんはおじいちゃんの家にひとりで泊まりに行っていると思う。

お母さんやきょうだいたちと離れて、夏休みが終わる間際まで。

ミーティングでKちゃんの長期外泊を許可するかどうかという話し合いをした。

みんながいいと思うと言ったので、

私は施設としてそれがOKなのかどうか、もう一度ルールの確認をしてもらった。

私は「うざい」人だ。

でもね、それは形だけのこと。

上司が、施設のルールと、今のKちゃんの家の状況、母の許可など含めて、許可することはできる条件はそろっているので、と私を説得する形となり、

私は個人的には賛成だったので、わかりましたと納得する形となって、

無事Kちゃんに外泊許可が出た。

その後、一番厳しい上司が、お母さんとKちゃんに外泊許可を伝えていた。

 

私は、自分もアイヒマンであることを感じている。

役割に従順である。

この施設はある意味で牢獄だと思っていて、私はある意味で看守であると思っている。

その認識は、どれだけ利用者さんたちと仲良くなり、どれだけ職員さんたちと馴染み、この施設にいることが私の日常となっても、変えてはならないと思っている。

私個人としては、こんな生活は窮屈すぎてたまらないと思っているから、

特例として様々な小さなルールの免除が行われていることについて、人の心があるなら当然それで良いと思うのだけれど、

でも、この施設のルールはルールとして守られなければ、もっと大きな措置のルールに抵触してしまうと、利用者さんたちの生活が守られなくなってしまう。

つまり、この施設から強制的に退去になってしまう。

そもそもが、社会のルールを守ることができない利用者さんも多い。

そんな中で、ルールを四角四面に守っていくべきだと言う建前はとても大切だと思っている。

たとえ悪法であっても、守るべきだと思っている。

もしもどうしようもないのならば、その悪法を変えなければならないと思っている。正当な手続きを経て。

だから、私は形式的には、うざがられる役割を引き受けていこうと思っている。

それが気楽にできるようになったのは、私と職員さんたちの関係が良くなったからだと思う。

形の上での話だけだから、意味があるのかどうかわからないけれど…

でももしも、措置元が何か言ってきたとしても、反対意見も出たけれど、このような議論の末にこの度は許可をしました、と言える。

私は施設の安全運転を考えているようだ。

形骸化しているだろうけれど。

 

でも、大人の世界って、本質が見えて動いていることはほとんどなくて、形さえ整っていれば通ることが多々あって、たったひとつのハンコが足りないだけで全てが通らないというものなのだって、学んだ。

好きではない。

でも、そこで生き延びていかなきゃならない。

Kちゃんは、アウトサイダー ぶりたくて金髪にしたのだろう。

誰も私を支配なんてできないのよっていうメッセージなんだろう。

そのままで、社会に適応できていけるんだろうか。

そういう人々のコミュニティに入っていくつもりなんだろうか。

いい子ちゃんでしかいられない私には、わからない世界だ。

そして私は、どこまでもアイヒマン的に小賢しいようだ。

私の真心と私のアイヒマン的保身とが両立できなくなった時に、私はこの職場を辞めるのだろう。

 

 

社会適応的に生きていくことと、私が自分の良いと信じるものだけの世界に進んでいくことと、

そこには大きな矛盾がある。

でも一方で、今私に降りかかってくる物事は、もしも私がここに居なければ、別の誰かに降りかかったに違いないとも思っている。

私がどれだけ従順であろうと抵抗しようと、世界の方は何も変わらず、この流れが否応なくやってくるだけだと思う。

だから、私は、自分のうまくやりたいという私の頭なんてちっぽけなもので、何を考えても無駄なことだとあきらめた上で、

それでも目の前の人々のために、未来の人々のために、今私ができる最大限のことをしてみようとあがいている。