仕掛け

今日はコーラスの練習だった。

それから頼まれ仕事の文章を作っていた。

気づいたらこんな時間になっていた。

 

正確に情報を伝えるのは難しい。

わかりやすく、読みやすく、そして心に響くように伝えるのはもっと難しい。

文章を作るのは、編集作業と創作活動が一体となっている。

私はアイディアは浮かぶが粗雑なので、論理を埋めていく作業が必要なのだが、どうも苦手だ。

コーラスの日は練習が始まるまで、朝早くに町に出て、喫茶店で構想を練ったり文章を書いたりしている。

そうやって場所を変えてみると、結構いいアイディアが浮かぶのだ。

 

私の創作活動の様子は、他人からはほとんど遊んでいるように見えるだろうなあ。

あっちの本を広げ、こっちの本を広げ、ベッドや机の上に無造作に重ねて積み上げながら、

インプット中の私自身は寝転がっていたり転がっていたりするし。

アウトプット中の私は音楽かけながらだし。

甘いもの食べたり飲んだりしながらだし。

途中でお風呂入ったりするし。電話したりするし。散歩したりするし。気づいたら寝てるし。

でも、ずっとその文章のことを考えている。そのテーマについて考えている。

 

私はセレンディピティを信じている。

真面目に考えていたら働かない脳のどこかを働かせようと、努めている。

セレンディピティがやってきやすいような状態にしようとしている。

遊んでいるような多くのムダは、セレンディピティのための仕掛けなのだ。

でも、そうすると今度は論理が飛躍しまくるのであった…。

大胆に構想を作ってから、緻密に論理を組み立てていくのが理想なのだろう。

…しかし私にそんなことできるんだろうか。

 

…と、頼まれ仕事の文章を作るときはいつも、私はひとりジェットコースターに乗っているような感じだ。

いいアイディアが浮かんだら興奮して、ノートに書いていくけれど

そのうちうまく文章にならないことに焦って落ち込んでいく。

必要な資料が見つからなくてあきらめかけたりする。

それがひどくなってスランプに陥ったりランナウェイ現象に陥ったりする手前で、友だちとおしゃべりをする。

あるいは、歌ったりする。

私は自分の起伏の激しい気性を、落ち込みやすい性分をどうにもできないが、

ずいぶんと予測し、制御することはできるようになってきた。

 

 

 

コーラスの練習はいつも教会の中で、みんな間隔をかなり空けて座って歌っている。

マスクつけてるし、不自由極まりないが、

多分肺活量増えてると思う。

離れて歌っていると、なんとなく人を頼ることができなくて、

歌い出しとかタイミングも、しっかりと責任持って発声できる気がする。

どんなことであっても、負荷がかかる訓練は良い効果をもたらすように思う。

 

今日はお誕生日会の歌のプレゼントの録音をした。

いつコロナで活動自粛になるかわからないので、機会を見つけて録音してみようということになったのだ。

久しぶりにみんなで並んで歌ってみると、声を合わせている!と実感した。

物理的に、みんなの声が一体となったのを感じた。

早くマスクなしで、並んで輪になって歌える日が来ればと願う。

けれど、きっとその日まで、私たちはより歌が上手になるだろうし、

より歌うということのしあわせをわかっているだろう。

 

そういえば私は子どもの頃、合唱の練習が好きだった。

何度も何度も繰り返して練習すれば、だんだん上手になっていく。

音楽の隅から隅まで、味わえるようになっていく。

歌の練習だけは嫌いじゃなかった。他の練習はどれも嫌いだったのに。

発声練習も嫌いじゃない。

声が響くのが嬉しい。みんなの声と響き合うのが嬉しい。

 

今こうして、みんなで歌えるということが本当にありがたい。

きっと私にとってとても大切なことなんだろうと思う。

 

そして一緒に歌った友だちとお昼ご飯も一緒するのだった。

1週間に一度の贅沢。

近くにこうして友だちがいることを、本当にしあわせに思う。

 

そうやって気分を換えて、おしゃべりで程よくインプットとアウトプットをして、

脳の違うところを刺激して、

また文章に向き合う。

私はひとりでいても、みんなといても、しあわせだなと思っているみたいだ。

 

 

さあ、そろそろアイディアは出そろったようだ。

あとは集中して詰めていこう。真面目な脳の部分に働いてもらおう。

 

 

少し前進

今日はプチパセージが流れてしまった。

その代わりに、会場の鍵を返しに歩いて行ったり、

冬支度の諸々をネットで買った支払いをしたり、

頼まれ仕事の文章の構想を練ったり、書いたり、

有意義に過ごすことができた。

久しぶりに母とオンラインで長電話したりもした。

 

私はおしゃべりなので、ひとり暮らしでバランスを崩しやすい。

数日閉じこもって文章書いたりしていると、

文章書くときは音楽をかけていて

ご飯中は岩田温チャンネルと竹田恒泰チャンネル見るのだけど、

だんだん人恋しくなってくる。

自分が話すことができないと、辛いのだ。

でも意外と、オンラインでのおしゃべりがあれば大丈夫だということもわかった。

話すことができれば、というか私の話を面白がって聴いてもらえれば、大丈夫。

 

 

昨日のブログに書いたことを反芻していた。

私は自分の技術の未熟さだけが目下の問題だと思っているということについて、

どこまでも私は私に関心があるんだなと思った。

カウンセラー養成のとき、野田先生に言われたことを思い出した。

私は、自分の頭の中ばかりを見ていてクライアントを見ていないって。

だからカウンセリングができないんだって。

私は自分の頭の中に興味がありすぎる。いわゆるマインドトリッパーの素質、十分あるだろう。

勉強と修行を重ねて、どうにかカウンセリング中とパセージ中などだけは、意識を保って相手のことを見れるようになってきたけれど、

私が私の頭の中ばかり見ていることに変わりはないのだなあとわかった。

 

電話だってそうだ。

私の話を聴いてもらえるかどうかが重要なんだから。

私はどこまで自分勝手なんだろうか。

 

そういう私だから、

プチパセージは大変苦手なんだけど、お客さまが来られたら、それだけでけっこう嬉しくなってしまうのかもしれない。

だって私の話を楽しんでもらえればとても嬉しいから。

書いていて、趣旨がちゃうやろ、と思った。

けれども話し好きの私を変えることは、おそらくできない。

せめて効果的に話せるように訓練しよう。

何を話すかよりも、何を話さないかということの方が重要だと、野田先生はおっしゃった。

 

 

いつも私の真ん中に野田先生がおられる。

私の子どもたちも、野田先生のことをよく思い出しては話す。

この土日に来てくれたときは、野田先生の書いた絵が見つかったからと、持ってきてくれた。

彼らが喜ぶだろうと思って、野田先生の描くおなじみのたぬきさんの絵が、車や船に乗っていたりキャンプしていたりと、やたらアクティブになっていたのだった。

野田先生はぼくたちのためにいっぱい車とか描いてくれていたんだね、と子どもたちは言った。

ほんとうに。先生は、君たちのこと大好きだったもの。

 

まだ1年も経っていない。

野田先生のことを思うと、私はおしゃべりでなくなる。言葉が見つからなくなる。

野田先生についての話は、いくらでもできるけれど。

 

混乱と停滞

外の世界は、自分の心を映しているのだという。

だとすれば、今の混乱は私が混乱しているのを映しているということなのだろう。

 

様々なことが停滞中。

頼まれ仕事の文章はうまく書けない。勉強会にお客さんは集まらない。他の仕事の目処もまだ立たない。

とはいえ、人間関係における問題は見当たらない。

私は自分の理想とのギャップに落ち込んでいるだけであって、自己執着に囚われているだけだ。

だから問題と言ってみても、あまり大したものではない。

 

子どもたちの住む家に、最後の荷物を取りに行った。

大きな和ダンスである。

引越しを手伝ってもらった3人の方に、今回も無理を言って手伝っていただいた。

そうしたら、搬出作業を元夫も手伝ってくれた。

男3人で暮らしている家中を次男が案内したいというのを、笑顔でどうぞどうぞとすすめてくれた。

みなさんに、お世話になってありがとうございますと丁寧に挨拶してくれた。

…めちゃくちゃいい人だと思った。

元夫の立ち合いがあるということで緊張気味だったみなさんも、「いい人ですねえ!」と感嘆しておられた。

そうなんですよ。元夫はいい人だ。

 

多くの方々の助けで、私はこの自分勝手なひとり暮らしをさせてもらっている。

いい家と、いい人である夫と、可愛い子どもたちと。

自分の手放したものの素晴らしさに、あらためて驚いた。

でも、何度も点検してみたけれど、私には驚くほどに未練がなかった。

安定した不自由よりも、この不安定な自由を、私は好んでいる。

 

私が苦しく思うのは、自分がうまく文章を書けないこと、学びが至らないこと、カウンセリングが下手なこと、パセージリーダーとして未熟であることだ。

これまでは、家族と本音で話し合えないこと、アドラー心理学の講座に自由に出かけられないことが最も苦しかった。

せっかく得た自由なのに、それでも自分のスキルは上がるわけではないし、コロナ禍で相変わらず移動は制限されるし、理想の状態がやってきたわけではない。

けれど、私は怒りや悲しみを感じることが今の生活になってからほとんどない。他人に対して陰性感情を覚えることがほとんどなくなった。

憂鬱にはなるけれど。これは自分に向かう感情である。

 

 

やれるだけ全部準備してみて、それで叶わないのなら今はそういう時期なのだとあきらめる。

どれだけこれを繰り返すのかわからないけれど、私が今多くの方のおかげで生かされているのは確かである。

私に意味があるのなら、きっといつか、事態は動き出すだろう。

私が少しでも誰かにとっての意味となれるように、できるだけのことをしていこう。

私の心が平静でないから、きっと今の混乱状態があるのだ。

 

自己執着

昨日はオンライン事例検討会。

今日はオンライン野田俊作ライブラリ勉強会。

明日はプチパセージ。久々に対面でアドラー心理学について学ぶことができるのが嬉しい。

 

臨床の技術としてのカウンセリング、アドラー心理学の理論の勉強、アドラー心理学の育児としてのパセージ、異なったアプローチではあるけれど

そのどれもに、一貫してアドラーの思想が流れていると、今日の勉強会で強く思った。

 

 

同じ行動をしていても、その目的や動機が異なれば、意味が全く異なる。

人のために自分のことを後回しにして、自分が不利益を被り、相手の利益のために動くとき、

自己犠牲という美徳に酔っていないか。

かえってその不利益を被ること自体が、称賛を得たり感謝されたり、いい人願望メシア願望を満たすことになっていないか。

もしそうだとすれば、それは人のお役に立つような立派な行動をしているけれど、

共同体感覚に向かう行動ではなく、自己執着の行動であるといえるだろう。

 

子どものためにという言葉で、

子どもに自分の理想を押し付けたり、愛しているんだから言うこと聞きなさいと言ったり、

あるいは子どもをしつけなければならない場面で子どもの不評を買うようなことをやめたり、

それらも暴力であったり責任の放棄であったりするわけで、

共同体感覚には向かっていない。

 

 

私自身も自己執着にまみれ、暴力的な衝動を抱えている。

まずは自覚するところから始まる。

そして、できるところまで手放していきたい。

 

難しいな。

誰も私を称賛してくれなくとも、私は私の良いと思うことを為していけるだろうか。

いや、やはり仲間の存在がなければ無理な気がする。

本当に、みなさんにどれだけ助けて支えてもらっていることだろう。

これを読んでくださるあなたにも。

いつもありがとうございます。

 

劣等感こそが美点

今日はベイトソンのオンライン勉強会だった。

日中はコーラスの練習に行った。

 

ベイトソンアドラーという、西洋哲学や西洋科学のデカルトパラダイムへの批判的立場から物を考えるようになると、

おそらく西洋哲学や西洋科学のメタの立場から物を見ることができるようになるのだろうと思う。

ベイトソンアドラーに馴染んだ今、西洋哲学や科学思想、現代思想を学び直そうとしている。

今読んでいるのはアーサー・ケストラー編著『還元主義を超えて』、吉永良正『「複雑系」とは何か』。

学生時代に学ぼうとしていたときは、右も左もわからず、ただ地べたを這うように、全てを飲み込んでいくしかなかった。

けれど今は、私に目的意識がある。ひとつの思想的立場に立っている。

とても学びやすく、より視野が広がっていく心地よさがある。

 

何かひとつを決めるということは、それに縛られるということでもあり、

ある意味で自由になるということでもあるのだろう。

どこまでいっても、ある立場に立つということは、その偏見から逃れられないけれど

その立場に自覚的である限り、他の立場についても、価値相対的に見ることができるのではないだろうか。

ライフスタイルからは逃れられないけれど、ライフスタイルに自覚的になれば、

そのライフスタイルを瞬間的には手放して、新しいことができるようになるのと同じように。

 

 

 

 

パセージとプチパセージのお知らせを昨日から始めた。

本当は、今とても困っている子どもさんや親御さんの力になれたらと思う。

でも、今の私はそこに直接アクセスすることはできない。

困っている人を救おうと思うことも、私は野田先生の弟子として警戒するし、

(野田先生はそれをメシア願望と呼んでたしなめておられた)

困っている人が救われたいと頼ってくる関係性も警戒する。

私はなるべく私自身の色を出さずにいたい。人の期待になど応えられない。

誰にでも、自分で自分を救う力があるはずだ。

その方法を知らないだけ。その方法が間違っているだけ。

私はただ、アドラー心理学の知恵をお伝えすることに集中したい。

今よりも子どもと良い関係を築けるように、自分を少し変えてみようと思う人たちに、

アドラー心理学の育児をお伝えしたい。

そしてプチパセージやパセージを体験してみて、いいなと思った方が、一緒に学んだらどうかなと思うお知り合いを連れてきてくださる。

そのうちに、本当に困っている方へと伝わっていけばいいなと思う。

遠い遠い道のりかもしれないけれど。

 

そんな話を友だちとしていたら、そういう手順は大事だと思うと言ってもらえて

とてもありがたく思った。

徐々に輪が広がっていくことって素敵だと思う、と言ってもらえた。

私のしていることは、本当に何かのお役に立てているのかなと

この頃、よく分からなくなっていたのだけど、

世の中は線形的ではない。

大事なことこそ、時間をかけて、手間をかけて、丁寧に伝えていくべきなのだろう。

スピードや効率やわかりやすさがもてはやされるけれど、そんなものではないよね。

そのことを同じように感じてくれる仲間が、私にはたくさんいる。

 

 

私の熱意は、人生を賭けていると言ってもいい。

野田先生がお亡くなりになってから、いまだ混乱してもいるし、いまだ希望を持てないでいる。

なかなか言葉にできないでいる。

でも、そうやって自分にためらいながらも、私は多くの人に支えられて、勇気づけられて、

そしてその人たちとの関係の中で生かされている。

 

パセージでもプチパセージでもカウンセリングでも、誰かのお役に立てた!と手放しで喜べない自分であることを、よかったと思おう。

「役に立つ」ことがおそらく優越目標である私にとって、

とても助かりましたありがとうございます、と言っていただけることは無上のことであるはずなのに、

そうは思えない私は、私をより役立たせられるような人間に成長しているんだと思う。

少なくとも、そこで満足してしまっていたときの私よりは。

いつだって私は不出来で、拙い。

それでいいんだ。だってもっと私を役立たせられるようにと学び続けられるから。

 

熱意を持っていることは幸せなことだ。

人生の目的を、意味を持っているということだから。

けれど、その目的にはいつまでも手が届かない。

私はアドレリアンとして、それを知っている。

そして私はそのことを、辛く思う。これは私のライフスタイルによる価値判断だ。

理想に手が届かないことに絶望しがちなのだ。

私はすぐに自分を役立たずだと思い込んで落ち込む。

そんな自分でも、でも、いいんだ。多分。

だって人がこんな私にかけてくださる優しさに、私に意味を見出してくださることに、いつも感謝していられるから。

 

締切前

久しぶりの更新になった。

身体的には元気である。やっと色々なことに対して前向きになってきたところ。

 

先週頭にコロナワクチンを接種して、倦怠感がすごくてだらだらとしていた。

そのままあらゆるやる気が削がれていって、落ちていった。

すべきことにもほとんど向き合わず…

週末は久しぶりに遊びに出かけた。

子どもたちも来てくれて、楽しい時間を過ごした。

これから本気出す!

 

今週は毎日オンライン勉強会が入っている。

先週は勉強会がほとんどなかったので、それで私の調子は落ちていくような気がする。

仲間と共に学ぶことが、私を整えていくような気がする。

ひとりでいると、私をどうやって使っていけばいいのか、わからなくなる。

 

今は待つ時期なのだろう。

すべきことは山のようにある。

 

愛は形

今日は野田俊作ライブラリのオンライン勉強会だった。

今日は「愛するということ」という野田先生の講演を文字起こししていただいて、みんなで読み合わせながら学んだ。

 

愛するということは、行動なのだと皆さんのお話を聴いていて感じた。

手間をかけるということ。

相手のことを思いながらはたらくこと。

自分のためにだったら面倒なことも、相手のためにしているときは、その瞬間が幸せ。

たとえその手間に相手が気づかなくても構わない。

 

例えば私は、普段は3日に一度ぐらい大量に食事を作って、それを食い尽くしていくという

効率と栄養を主眼にした食生活を送っているが(知人の男性から、ほとんど男ですねと言われた 笑)、

子どもたちが来てくれると、毎食毎食、食事を作っている。

そしてその準備は全然面倒とは思えなくて、料理をしているとき、ああ幸せだなと思うのだ。

たとえ彼らがお腹がいっぱいであんまり食べてくれなかったとしても、

あ、これは苦手な味です…とか言ってお口に合わなかったとしても、

それはもちろん、美味しい!と言って喜んで食べてくれるのが一番嬉しいけれども、

でもそういう反応は、実はおまけのようなものだ。

彼らのためにご飯を作ってあげられることが私の幸せだ。

そして、これが愛することなんだって、わかった。

 

「愛することって、お手軽じゃないんですね。考えたり言ったりするだけのお手軽なもんじゃないんですね。」という感想をお聴きして、

愛することは形に表すことなんだとわかった。

 

 

ある母娘がいて、どちらも愛する夫が病院や施設で暮らしていた時期があった。

母親は、夫が亡くなった後、

こんなに早く亡くなってしまうんだったら、もったいながらずにもっといい服を着せてあげてたらよかったわ。と言った。

その人は、十分にこざっぱりとして良い服を、いつも夫の部屋に準備していたのだけれど。

 

娘は、夫が入院になってすぐ、

本当に忙しくて大変。パジャマにアイロンもかけないといけないし。と言った。

アイロンがけは必要なのかと聞かれ、

当たり前じゃないの、だってちょっとでも気持ちいいでしょ。それに誰が来られるかわからないんだし。と答えた。

 

気の合う母娘ではなかったようだが、愛の形は似ているなと思った。

その形を、今、私は美しいと感じる。

きっと夫たちも、彼女たちの愛を十分に感じていたと思う。

 

 

 

彼女たちの愛の形を思うとき、私は万葉集柿本人麻呂の歌を思い出す。

「淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす」

万葉の当時、奈良の都から淡路島へ行くのは命がけの船旅だった。

やっとの思いで淡路に着いた時、出発の日に妻が結んでくれた着物の紐が風にひるがえる。

それを見て、夫が妻を思って詠んだ歌だ。

 

犬養孝先生は、万葉の愛は観念的な愛じゃない、もっと具体的なんだとおっしゃる。

妻が夫を待つのだって、あの人どうせ遅いでしょうからなんて、寝て待ってたりなんかしませんよ、

みんな外へ出て、爪先立って、寒くても雨や雪が降っていても、ずっと待っているんですよ、とおっしゃる。

愛するということは行動することだ。

 

「ありつつも君をば待たむ打ちなびくわが黒髪に霜の置くまでに」

仁徳天皇の皇后、磐姫皇后の歌。

寒い夜空の下、髪に霜が降りてもかまわずに待っている。

 

もしかしたら、こうして凍えながら待っている間、女たちは幸せだったのかもしれないと思った。