外の世界は、自分の心を映しているのだという。
だとすれば、今の混乱は私が混乱しているのを映しているということなのだろう。
様々なことが停滞中。
頼まれ仕事の文章はうまく書けない。勉強会にお客さんは集まらない。他の仕事の目処もまだ立たない。
とはいえ、人間関係における問題は見当たらない。
私は自分の理想とのギャップに落ち込んでいるだけであって、自己執着に囚われているだけだ。
だから問題と言ってみても、あまり大したものではない。
子どもたちの住む家に、最後の荷物を取りに行った。
大きな和ダンスである。
引越しを手伝ってもらった3人の方に、今回も無理を言って手伝っていただいた。
そうしたら、搬出作業を元夫も手伝ってくれた。
男3人で暮らしている家中を次男が案内したいというのを、笑顔でどうぞどうぞとすすめてくれた。
みなさんに、お世話になってありがとうございますと丁寧に挨拶してくれた。
…めちゃくちゃいい人だと思った。
元夫の立ち合いがあるということで緊張気味だったみなさんも、「いい人ですねえ!」と感嘆しておられた。
そうなんですよ。元夫はいい人だ。
多くの方々の助けで、私はこの自分勝手なひとり暮らしをさせてもらっている。
いい家と、いい人である夫と、可愛い子どもたちと。
自分の手放したものの素晴らしさに、あらためて驚いた。
でも、何度も点検してみたけれど、私には驚くほどに未練がなかった。
安定した不自由よりも、この不安定な自由を、私は好んでいる。
私が苦しく思うのは、自分がうまく文章を書けないこと、学びが至らないこと、カウンセリングが下手なこと、パセージリーダーとして未熟であることだ。
これまでは、家族と本音で話し合えないこと、アドラー心理学の講座に自由に出かけられないことが最も苦しかった。
せっかく得た自由なのに、それでも自分のスキルは上がるわけではないし、コロナ禍で相変わらず移動は制限されるし、理想の状態がやってきたわけではない。
けれど、私は怒りや悲しみを感じることが今の生活になってからほとんどない。他人に対して陰性感情を覚えることがほとんどなくなった。
憂鬱にはなるけれど。これは自分に向かう感情である。
やれるだけ全部準備してみて、それで叶わないのなら今はそういう時期なのだとあきらめる。
どれだけこれを繰り返すのかわからないけれど、私が今多くの方のおかげで生かされているのは確かである。
私に意味があるのなら、きっといつか、事態は動き出すだろう。
私が少しでも誰かにとっての意味となれるように、できるだけのことをしていこう。
私の心が平静でないから、きっと今の混乱状態があるのだ。