今日はプチパセージが流れてしまった。
その代わりに、会場の鍵を返しに歩いて行ったり、
冬支度の諸々をネットで買った支払いをしたり、
頼まれ仕事の文章の構想を練ったり、書いたり、
有意義に過ごすことができた。
久しぶりに母とオンラインで長電話したりもした。
私はおしゃべりなので、ひとり暮らしでバランスを崩しやすい。
数日閉じこもって文章書いたりしていると、
文章書くときは音楽をかけていて
ご飯中は岩田温チャンネルと竹田恒泰チャンネル見るのだけど、
だんだん人恋しくなってくる。
自分が話すことができないと、辛いのだ。
でも意外と、オンラインでのおしゃべりがあれば大丈夫だということもわかった。
話すことができれば、というか私の話を面白がって聴いてもらえれば、大丈夫。
昨日のブログに書いたことを反芻していた。
私は自分の技術の未熟さだけが目下の問題だと思っているということについて、
どこまでも私は私に関心があるんだなと思った。
カウンセラー養成のとき、野田先生に言われたことを思い出した。
私は、自分の頭の中ばかりを見ていてクライアントを見ていないって。
だからカウンセリングができないんだって。
私は自分の頭の中に興味がありすぎる。いわゆるマインドトリッパーの素質、十分あるだろう。
勉強と修行を重ねて、どうにかカウンセリング中とパセージ中などだけは、意識を保って相手のことを見れるようになってきたけれど、
私が私の頭の中ばかり見ていることに変わりはないのだなあとわかった。
電話だってそうだ。
私の話を聴いてもらえるかどうかが重要なんだから。
私はどこまで自分勝手なんだろうか。
そういう私だから、
プチパセージは大変苦手なんだけど、お客さまが来られたら、それだけでけっこう嬉しくなってしまうのかもしれない。
だって私の話を楽しんでもらえればとても嬉しいから。
書いていて、趣旨がちゃうやろ、と思った。
けれども話し好きの私を変えることは、おそらくできない。
せめて効果的に話せるように訓練しよう。
何を話すかよりも、何を話さないかということの方が重要だと、野田先生はおっしゃった。
いつも私の真ん中に野田先生がおられる。
私の子どもたちも、野田先生のことをよく思い出しては話す。
この土日に来てくれたときは、野田先生の書いた絵が見つかったからと、持ってきてくれた。
彼らが喜ぶだろうと思って、野田先生の描くおなじみのたぬきさんの絵が、車や船に乗っていたりキャンプしていたりと、やたらアクティブになっていたのだった。
野田先生はぼくたちのためにいっぱい車とか描いてくれていたんだね、と子どもたちは言った。
ほんとうに。先生は、君たちのこと大好きだったもの。
まだ1年も経っていない。
野田先生のことを思うと、私はおしゃべりでなくなる。言葉が見つからなくなる。
野田先生についての話は、いくらでもできるけれど。