最近、少し落ち込んでいた。
どれだけ一生懸命やってみても、ほとんど何も変わらないんだろうと思えて。
私は何の役にも立たないんだなと思えて。
私の働いている施設の利用者さんや子どもたちについて、ひいては、世の中について。
昨晩そんなことをオンライン勉強会で話してみた。
話しているうちに、小さな小さな成長が、良い変化があることを思い出せた。
それは本当に小さな小さなことで、
たとえばかすみ草の花びらのようなもので、誰もそれを花びらとは認められないぐらいの小ささなんだけど
それを泥の中に咲く蓮の花と思っていいのかな、とも思えた。
今までのたくさんの職員さんたちの支援によって、今の利用者さんたちが少しずつ成長して一歩ずつ良い方向へ歩んできたということが見えてきた。
私の価値観とは違う、私の良いと思う方法とは違う、別の方法で良い成果が得られている部分がある。
しかし私は、過保護過干渉であったり支配的であったりする関係の作り方を採用したくない。
私がアドラー心理学を実践しようとすればするほど、良い職員からは外れていく。
とはいえ、業務上、過保護過干渉な対応をしなければならないことも多々ある。
それに、もちろん、アドラー心理学の実践ということ自体、不十分でもある。
業務を遂行するために、支配性を発揮してしまうこともある。子どもに指摘されてハッとした。
2歳のAくん。嫌なことは絶対嫌。力も強い。泣き声も大きい。
前庭の太鼓橋をつかんで離れないが、もう居室に入らなければならない17時を過ぎている。
お家に帰ろう、と言っても「なん!」と頑として動かない。
それならばと、「ごめんね、もう帰る時間だからね。また明日遊ぼう。」と言ってAくんを抱っこして手を離そうとするが、「なーん!」と抵抗にあう。
そこに3年生のMくんが来て、「Mさん、そんな無理やりやったらダメだで。」とたしなめられた。
「じゃあ、どうしたらいいの?もう時間過ぎてるのに、Aくん帰ってくれない…」
Aくんが帰ってくれないと『私が』困るのよ、と私は考えていた。そのことを自覚した。
それが仕事だから。
でも、そんなことAくんの気持ちとは関係ないね。
私だって、もう少しAくんの気が済むまで遊んでたっていいと思うけど、でも決まりは決まりだから。
Mくんは「こうしたらいいけ。見ててな!」と私の目を真っ直ぐに見て、
Aくんの前に回って「Aくん、帰ろうな。あっち行こう!」と優しく優しく声をかけた。
「なん!」
「明日またいっぱい遊んだらいいから。今日はあっちに行こう。」
「…」
「そうすればいいんだね。Mくん、ありがとう!」
「いいで。」
いつもすぐに帰らなくて怒られているのはMくんなのに、小さい子たちが不適切な行動をすると、急激にみんながいい子になって決まりを教え始める。
大きい子たちを成長させてくれる小さい子たちにも感謝しているし、小さい子たちを優しく指導してくれる大きい子たちにも感謝している。
Aくんは太鼓橋から手を離して降りたが、しかし次は砂場のスコップとカップをつかんで、しゃがみこんで小石をカップに入れ始めた。
「…あかんなあ…」絶望しかける私。もう真っ暗になってきた。
「AくんAくん、帰ろうで〜」
「なん!なん!」
「はい、砂場のスコップはもう置いてな。」
「なん!」
Mくんは根気強い。しかしAくんは手強い。
スコップを投げ飛ばし、小石をばらまき、お怒りである。
「あ、これも片付けなきゃ…」いつも遊んだおもちゃを放りっぱなしで逃げて帰るMくんなのに、砂場のおもちゃと時間を気にしている。どうしたんだ。すごい。
「Mくん、ありがと。片付けは今日は私が後でしておくから、今はAくんを玄関に連れて行くの手伝ってくれる?」
「いいで。Aくん、抱っこしようか。」Mくんが手を広げて近づくと、「なーんー!」と言って泣いて私の足にまとわりついた。
そこをすくい上げて、抱っこをした。「Aくん、ママのところ行こうか。」
「ママ!」
こうして何とか目標を一致させることができた。
自分の不出来さばかりに目がいく。
けれど確かに、Mくんと私は、良い関係を作っていっていると思う。
私が小さい子たちにまみれているとき、
(背中に6歳児をおんぶして前で4歳児を抱っこして、その状況で7歳児に抱っこしてって足をつかまれていたり、実際にまみれている 笑)
気づいたらMくんがいて、2歳児や0歳児を優しくなでていたり、見てくれていたりする。
なんて優しい顔をするんだろうと思う。
2歳児や0歳児に「Mくん優しいね。いいね〜」と言う。小さい子たちはキャッキャッと笑う。
Mくんはとても嬉しそうな顔をして、そっと小さい子たちのほっぺたをなでる。
こうして書くと、とても美しい情景だ。
実際そうだ。こんな美しい情景に、私は日々溶け込んでいる。
いたずらっ子のNくん6歳も、Aくんや0歳の妹Rちゃんをとてもとても優しい顔をして抱っこしてあげることがある。
(Nくんは倉庫の屋根に登ったり、3階の窓ガラスに張り付いたり、我々の寿命を縮める…)
Nくんが抱っこをすると、泣きかけたRちゃんの顔が、パッと輝いたりする。
こんなに小さくても、自分のお兄ちゃんのことしっかりわかっている。
NくんはそっとRちゃんの頭をなでる。
私はNくんの頭をそっとなでる。「優しいお兄ちゃんだね。Rちゃんとっても喜んでるね。」って言う。
そんなNくんを見ていて、Mちゃん3歳が「Nくんが抱っこがいい!」と抱っこをせがんでいた。
Nくんはいいよと言って、椅子に座った膝の上でMちゃんを抱っこしてあげていた。
それを見て、Kくん2歳もMちゃんが降りたすきを見てNくんによじ登って抱っこしてもらっていた。
照れながら、優しく背中を支えてあげていた。
こんな風にして、遊びながら子どもたちは仲良くなっていくんだなあって
言葉なんていらないんだなあって、学んだ。
Nくんはとても穏やかな顔。
数時間前に砂場で泥水をぶちまけ、砂を周りにかけ、「言うことなんて聞かないぜー!」と私に言った彼と、とても同一人物とは思えない。
さあお家に帰ろうとなった時、しかしNくんの「やだ」が始まった。
お母さんがご飯作ってくれたから、一緒にお部屋に上がろうと誘っても、何を言っても「やだ」と言ってYouTubeを見ている。
どうすれば言うことを聞いてくれるかはわからないけど、無理やりは絶対うまくいかないことはわかる。
小さい子たちはみんな誰かに抱っこされて帰っていった。
…ということはもしかして?
「Nくん、抱っこしてお家まで一緒に行こうか?」
「うん!」Nくんは振り向いて、私に飛びついてきた。
「テレビ消してくれる?」
「うん!」握りしめていたリモコンでテレビを消して、渡してくれた。
「ありがとう。帰ろっか。また明日遊ぼう。」
「ねえ、階段で上がって。」
「え!?3階まで?こんな大きいお兄さん抱っこしたまま上がるんですか?」(エレベーター使う気でいたのに〜)
「そう。」
Nくんの照れ臭そうな笑顔に負けた。
「わかった!重たいけど頑張る!」
「えへへ。」
そうね。お兄ちゃん100%は嫌なのね。弟でもある君は、しっかり甘えん坊もしたいんだね。
お家に送り届けると、いつもは「帰っちゃダメー!」ってひと騒ぎするNくんだったのに、
すっと降りて「バイバイ」って笑顔で手を振ってくれた。
「言うことをきかす」という発想がそもそも間違いなんだろう。
「協力を勝ちとる」ことを目指すべきなのだ。
とてもとても難しいけれど。
でもパセージでは、アドラー心理学の育児では、それが徹底して主張されている。
まずは良い関係を作ることから。
良い関係は、感情を使って怒ったり、ご褒美を与えて釣ったりしていては、作れない。
だってそれは我々大人が上で、子どもが下という関係性を強化することだから。
だから私は、してほしいこと、してはいけないことを冷静に伝え続けて、話し合って、納得してもらって、選んでもらえるように、
ああ、賞罰でもって子どもたちを育てている人たちの傍らで、仕事のできる職員さんたちに疎まれながら
子どもたちと接していこう。
それどころじゃない、とも思う。
彼らの生活は大変だ。
ゲームやテレビを子守りに使うのは、私は今も賛成できないけれど、
でもそうでもしなければどうにもならない場合がある、ということもわかるようになった。
子どもたちが社会に適応できるように、苦しいことばかりの子どもたちのために、
頑張ってもらうためには、せめて楽しいことが待っているからって思ってもらえるように、
ご褒美を与えようとする大人たちは、まったくの善意だし、愛情がたっぷりであることもわかるようになった。
私が目指しているものは、高すぎるところにある。
それはわかっている。
だけど、大変な状況にある子どもたちだからこそ、
より一層、協力して生きていくことを学んでほしい。
勇気を持って生きていってほしい。
今を快適に暮らすことももちろんできる限り叶えてあげたい。
だけど、未来を切り拓く力を、何よりも必要としている子どもたちだと思う。
そのためには、小さな小さな輝きを見つけるたびに、それを大切に、自分のものにしてもらえるように、伝えていくしかないのだと思う。
私もこのぬかるみに足を取られる。
でも子どもたちはこの泥にまみれる必要はない。
こんな何の手応えもない、先の見えないことを馬鹿みたいにやって、
それを一人前に「仕事」などと言って、私が生活するに足りるだけのお給料をいただいて、
何で私はいつもこんなに気楽に生きていられるんだろうかと思ったりもする。
でも、少しでも良いことをしたいと思って一生懸命なのは本当だ。
今はこうやって生きていく道を選んだ。
はっきりとはわからないけれど、アドラー心理学をもっと学べるように、いつかはそうなるように、この道は続いていると思う。
今日は珍しく18時に勤務が終わるシフトだった。
Mくんのこと、Nくんのことなどぼんやり考えながら家路を歩いていると、
久しぶりに大切な友だちに出会えた。
この道は間違っていなかったんだと思った。
すべきことをして、したいことを忘れないでいれば、私はきっと間違えない。
失敗はたくさんするだろうけど。
この道は私の道だ。
そして私を作っているのは、人々との出会いと、言葉だ。
私は私の中にあるのではなくて、世界の一部の部分集合が私。
だからきっと、馬鹿げた私の懸命さも、この世界には必要なのだろう。