灯台守

今日は絶対的休日。

昨晩から子どもたちが泊まりに来ている。

毎食毎食の食事の準備をするのが面倒だけれどありがたい仕事だと思う。

ひとりだったら2、3日そればかり食べて過ごしてしまえる量が、気持ちの良いほどきれいになくなる。

たくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん寝て、本当に健康に育っているなあと安心する。

 

午前中は次男の仲良しの友だちと私の友だちであるお母さんに遊びに来てもらった。

できる限り普通の親子の暮らしをさせてあげたいと思っていたら

一緒に暮らしていた頃よりも、互いに普通の親子の暮らしのありがたみがわかってしまった。

来週は一緒にコンサートに行く。来月は一緒に落語会に行く。

家の中での生活すべても、お出かけも、一緒に居られることが幸せだ。

 

次男が寝る前に「ぼく野田先生みたいなすごい人と近かったんだね」と言った。

「お葬式に来ていた人たちみんな、野田先生の家族みたいなものなんでしょ。ぼくもだよね。」

そうだよと言うと、うれしそうにしていた。

「野田先生はすごかったよね。釣りもしてたし、山も登ってたんでしょ。お料理も美味しかったなあ。スイカハリネズミ作ってくれたし。」

そうだったね。

あなたの中にもちゃんと生きておられるんだね。

 

ラプンツェルとかアラジンなどのディズニー映画の話をしていて、なんでお姫さまは泥棒と結婚して、泥棒が王様になるんだと次男は憤慨した、

「結婚する前にちゃんと罪を償えよ。」

もっとも過ぎて笑ってしまった。

「アラジンの場合は生きていくために盗みをしていたから、職業的泥棒とは違うかなあ…。

自分が食べるために盗んだパン、貧しい子どもたちにあげてたし…」

「え、そうなの?感動的じゃないか。マジ泣きそうなんだけど。」

理解があり過ぎて笑ってしまった。

彼はいつの間に正義や常識を学んでいたんだろう。

 

 

昨日の自助グループで、子育ての行動面の目標の「社会と調和して暮らせる」について深く話し合うことができた。

社会との調和の仕方は様々なんだと思う。

社会に対して破壊的でないこと。その他は、かなり自由なのではないだろうか。

 

細々と絵を描くことが、音楽を作ることが、演奏することが、演じることが、

まるで人が生活するのに役に立たないようなそんな営みが、

希望を失いかけた人間の心に触れ、生きる勇気を与えることはいくらでもあることだと思う。

芸術は、社会に大きく貢献している。

芸術も市場原理に乗ってしまうから、売れるものだけに価値があると思われがちだけれど

それは現代の病だ。

芸術は、古代から人間が必要とし、追求してきたものだから。

 

 

野田先生は「社会と調和して暮らせる」という言葉遣いにしているのは、「調和して暮らすことができる」という能力として考えてもらったらいいからだと、いつか仰っていた。

「社会と調和して暮らすのが難しい人だっているんですよ。

人々と一緒にいるのがしんどいっていう人も中にはいます。

でもね世の中には、一人きりで居て、社会に貢献できる仕事だってあるんです。

例えば、灯台守。孤独な仕事ですよ。

夜の間ずっと一人で明かりを灯して、港を守るんです。」

その人自身が人々との直接的な付き合いという面では社会と調和しているように見えなくても、

灯台守として仕事をすることで、社会の中に必要な存在としてその人は組み込まれていて、

そう考えると、その人も社会と調和して暮らしていると言えるだろう。

 

 

今私は制限の中で生きることを選んでいるから、アドラー心理学を広めていくことが、学びに行くことが、思うようにできない。

でも灯台守のように、私がここに居ることで誰かの役に立てるのかもしれないと思えた。

船を漕いで広い世界へ出かけたいけれど

今は、港を守ろう。

アドラーの灯火を絶やさないことが大切だ。