今日は絶対的休日。
まったくまったく珍しいことに、誰とも会わず話もせずに、1日引きこもっていた。
昨年度はこんな日が多かったのに。
今の生活は想像もできなかった。
不思議すぎる。
ちなみに私がいつまでこの生活を続けるかは、私次第である。
1年後の今頃私がどこでどうしているかは、わからないでいるのもいいなと
思っていたりもする。
それは、今の仕事が嫌だからというのとはちょっと違って、
こんなに自分に合うわけもないと思っていた仕事が、思いの外こなせるようになってきたから、
私にできる仕事の幅が広がったから、
他の場所を探すことも選べるんだって思っていたいと思ったから。
この職場に馴染んで、この特殊な日常が当たり前になって、新鮮な驚きを持って仕事ができなくなるのが嫌だなと思ったから。
精神が鈍麻していくことが怖い。
明らかによくない事態が起きる。
しかし正面から対処するわけにいかない場合が、多々ある。
裏口からそっと引き入れて、表玄関では全く何も知らない顔をして、
関係者には部分部分ごまかしながら、事務室の中では全ての情報が並べられている。
私は職場の方針に従うしかないから、何も知らない顔をして情報を集めに行く。
必要な方法をとっていると思うけれど、それを良くないとは言えないけれど、
私はいつまでもはここにいられないだろうなと思う。
できる限り正直な言葉を使いたい。
せめて、情報を伏せるということだけに留めて、
思ってもいないことや事実でないことを、真実であるかのように利用者さんや子どもたちに向かって言うことはしたくない。
…おそらく、私はここの施設でのきついと思うポイントが特殊だろうと思う。
不規則勤務とか、夜勤とか、大変な利用者さんの相手とか、ヘビーな事件を見聞きすることとか、汚れ仕事とか、(採用された業務と違う業務しかできないとか)
そういう理由で辞めていった人は多くいる。
私は嘘をつくことが嫌だなと思っている。
正面から問題になっている事態に取り組めないことが嫌だなと思っている。
…大人にはなりきれない。
困っているあの子に、私が知るはずのない情報を持っていることが伝わってはいけないから、
私の伝えたい言葉をかけることができない。
暗い目をして出かけようとするあの子に、
「大丈夫?何かあったら、私でよければお話ししてね。気をつけて、いってらっしゃい。」
と言うのが精一杯だった。
私がこの枠組みの外にいれば。
いや、あの子が私につながろうとしてくれない限り、どこにいたって私はあの子の力になることはできないんだ。
結局、私はあの子の力になることはできない。
「うん。ありがとう。」
そう応えたあの子が何を感じているのか、考えているのか、私は知りたいのに。
次の日のあの子は、妙に穏やかな笑顔を湛えていた。
代わりにきょうだいの方が調子が悪い。
いつものパターンだ。
しかし数日前にバランスが崩れる出来事があった。
この物語の変化が、今までのところに落ち着かない可能性があるように思えて
私は怖いなと思っている。
でもそれはただの私のゲッシング。
当事者の誰もが正直に話をしないから、全く外れているかもしれない。
関わる職員たちも、正直に話をしないから、この事態がどのように認識されているか、当事者の誰もわかっていないだろう。
そんな気がかりを抱えながら、
他の子たちや利用者さんたちに対応しているうちに、私はあの子のことを忘れていたりもする。
そのことに気づいて、ぞっとする。
毎日のように大変な事態の人たちに接していて、それが当たり前になってきて、
私は人間らしさを失くしているんじゃないか。
辛くて忘れようとしているのならいい。
でもそうではない。
もしも、そんなもんだと麻痺してきているのだとすれば、怖い。
ちゃんと心を動かして、人間らしく生きていたい。
哀しさとかやりきれなさとか、そういう心地の悪い感情を
私はちゃんと感じ続けていたい。
あの子が感じているはかり知れない哀しみややりきれなさを、なかったことにしないために。
…ああ、悲心とはこういうことなのかな。
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を久しぶりに読み返した。
大事なことはここに全て詰まっている気がした。
私にできることは小さなことでしかないから、
目の前にいる誰かのことを心から大切に思って接していたい。
たとえ二度と会えなくなるのだとしても。そうだとしたら、なおさら。