今日は仕事の後、友だちの家に遊びに行った。
ママ友でもあるその友だちは、私の職場の近くに住んでいる。
夕方は近くの公園で子どもたちを遊ばせているよと聞いていたので、連絡してみたら、
今は家にいるからよかったらどうぞと言ってもらえて、
小学生みたいに、放課後ちょっとだけ遊びに伺ったのだった。
良い親子関係の中ですくすく育っている子どもたちと、素敵なお母さんである私の友だちと、
一緒に過ごすのが私にとって心洗われる時間だ。
本当に、いい親子だなあ、いい子育てだなあって、嬉しくなってしまう。
良いモデルを見させてもらっている。
当たり前のような生活リズムや食生活を、当たり前のように作っていけることって、
とても素晴らしいことだと思う。
その上子どもたちが楽しく充実して過ごせるように、様々に暮らしを整えて工夫をして、
お母さん業は本当に尊い仕事だと思う。
今、当たり前の生活が難しい子どもたちを見るようになって、より強く思うようになった。
私にはたくさんのママ友という素敵な友だちがいる。
みなさんパセージや自助グループで仲良くなった方たちだ。
始めは、私がリーダーでパセージを教えるという立場だった。
でも今は、私が色々なことを頼んだり、話聴いて〜ってお願いしたりすることも多い。
とても支えてもらっている。
お互いに大変なことを報告し合ったりして、お互いに頑張ってるよね、たまに息抜きしながら、それぞれに頑張ってやっていこうねって言える。
私たちは自分の課題を誰かに任せることはできない。
でも、自分ひとりだけで黙ってその重みに耐えることはない。
あー今しんどいです、この荷物投げ捨てたくなってますって、弱音を吐きたくなった時に、
それは大変だよね、私も同じ。って言ってくれる人がいると、それだけで、私はもう少し頑張れる気になる。
変な励ましもアドバイスもいらないし、憐みなんかはもっといらない。
ただ、大変だよねって言ってもらえたら嬉しい。
そう言ってくれる友だちも、私と同じように、自分で背負うしかない重い荷物を一生懸命担っていて、同じように時々弱音吐きたくなりながら歩いているから。
私たちは同じだから。
そうやって共に歩いていく関係を、平等で対等な横の関係っていうんだろうと思う。
今日のオンライン勉強会で、あらためて言語化することができた。
様々な事情があって、しんどくなってしまって学校を休んだ女の子と話をした。
「私が5年生だったはるか昔のことを思い出していたんだけどね。私、大人に何か手伝ってほしかったかなって思ったら、何もしてほしいことなんてないな、ほっといてほしいなって思ったかもって思ったんだ。Oちゃんはどう?」
「えー、そんなことないよ。」
「ほんと?私に何かお手伝いできることあるかな?」
「うん。一緒に遊んでもらったり、相談に乗ってくれたりしたら嬉しい。」
「うん!何でも相談してね。」
「Mさんも、相談したいことあったら何でも言って!いつでも電話かけてくれたらいいから。夜でも、すぐに降りて聴いてあげるから!」
「ありがとう!Oちゃんが相談乗ってくれるの?嬉しいな。」
私は、支援職としてはポンコツだなあと思う。
でも、それでいいんだと、それがいいんだと、本当に思ってしまう。
Oちゃんの相談に乗る、というのがおそらく私に期待されている職務だ。
学校のことを聞いて、登校しにくい要因を探り出して、できる限り登校しやすいように手立てを考えるというのが、おそらく支援計画に沿った、私のすべきことだ。
でも、そんなことよりずっとずっと、尊いものを手に入れてしまったと思う。
Oちゃんは、私のためにできることを見つけてくれた。
とても驚いた。とてもとても嬉しかった。
それと同時に、Oちゃんのために何かしなければという気持ちが、私の中にあったことに気づかされた。
でも、私が可哀想なOちゃんを救うだなんて、友だちに対してまったく失礼なことだ。
今日のあの1時間、私とOちゃんは、きっと幸せだった。
庭先に座ってシャボン玉を少しして、
部屋に入って卓球を少しして、
それから卓球台の下の絨毯に寝そべって、ぬいぐるみを触りながら、
学校のこと、友だちのこと、話してくれた。
彼女の状況は大変なものだし、私にどうすることもできない。
彼女自身ができることをしていくしかないと、賢い彼女はよくわかっている。
そして私は、Oちゃんは自分で自分の課題にきちんと取り組んでいけると信じている。
もしもこの先、Oちゃんにとってもっと大変なことが起きるとしても、
Oちゃんは自分で自分の課題に取り組んでいけるって、信じていたいと思う。
そして、いつか別れがくることは知っているけれど
一緒に居られる間は、友だちとして彼女の側に居たいと思う。
彼女だけでなく、あの子もあの子もあの子も、
今縁あって一緒にこの施設で過ごす子どもたちと、良い関係を作っていきたい。
良い時間を過ごしていきたい。
それは私が職場で求められていることとは違うかもしれないけれど、
どうせ求められてなんかいなかった私だ。
誰にとっても悪いことはないだろう。
不適切な行動をしていても、不適切な行動によって所属することしか選べていなくても、
その必死の適応努力をしているそのままの彼らを、裁かずに、
生きていくのは大変だねって、同じように重い荷物を背負っている同じ人間として、言えるような存在になれたらと思う。