見えないつながり

今週は火曜日以外は毎晩オンライン勉強会が入っている。

土曜日は自助グループの定例会の予定だ。

 

 

先日、仲間がパセージリーダー養成試験に合格された。

これまでずっと私の自助グループを支えてきてくださった仲間が、より深く学んでいかれて、本当に嬉しい。

そしてその喜びを共有できる仲間がいることもとても嬉しい。

 

自助グループを立ち上げてから、6年ぐらいになるのかな。

たくさんの方たちに出会うことができた。

一緒に学び続けてくださる方、ときどき来てくださる方、パセージを受けてくださった方、ある時期よく来てくださっていて今は来られない方、町でときどきお会いする方、

私とのお付き合いの仕方は様々だけど、どの方も私にとって本当に大切な方たちだ。

私を成長させてくださった方たちだ。

 

自助グループが必要なくなったということも、それはそれでその方にとって素晴らしいことだと思っている。

お仕事とか様々なご事情で、都合がつけば行きますと言ってくださる方もいる。

一般に「行けたら行く」は「行かない」という意味だとか言われるけれど、

私はバカ正直に、来れたら来てくださるんだろうと思いながら、パセージのお知らせなどを定期的に連絡させてもらっている。

そうしていると、ときどき、行きたかったんですけどその日は都合が悪くてとか、職場がコロナの厳戒態勢で、など、お返事をいただくこともある。

迷惑がられていたら申し訳ないなあと若干思いながら連絡をしているので、そんな風にお返事がいただけると、とても嬉しい。

みんなそれぞれの日常を、一生懸命生きておられるんだなあと無性に愛おしくなる。

会えないけれど、私たちはつながっているんだなあと思ってしまう。

 

昨日、数年前にパセージを受けられた方から、パセージの単発参加できますか、と連絡をいただいた。

その方からの連絡は本当に久しぶりのことだった。

残念ながら計画していたパセージは延期になってしまったのですが、ちょうどその時間帯に自助グループを開催しますとお伝えすると、来てくださることになった。

私はバカでいようと思えた。

きっと私たちはつながっているんだと思い続けようと思えた。

 

パセージや自助グループでは、不思議なことが起こる。

他のことなど一切知らない方たち同士、心が触れ合える瞬間がある。

その人の美しいところがみんなの目に見えることがある。

そういう瞬間を共に過ごせた方たちのことを、私は他人とは思えない。

 

 

 

今日のリディア・ジッヒャーの抄読会では、勇気をくじかれている人はより高い、達成不可能な目標を目指そうとするということが印象的だった。

子ども時代から長い間、私はずいぶんと高い理想を追求し続けてきたと思う。

とてもしんどかったな、と思う。

一方で今、私は、自分にできることをしていこうと思っている。

これは私が自信を失ったとか夢を失ったとかいうことでは多分なくて、

背伸びをしなくても私にできることはあるという自信を持ったということであり、

できることをしていくことが夢の実現につながると信じられるようになったということだろうと思う。

自分にできることをしていくということは、けっこうしんどい行動ではある場合もあるけれど、しんどい思いはしていない。

すべきことをしていくことが、一番健康でいられるんだと実感している。

 

パセージリーダーになろうとか、カウンセラーになろうとかいう具体的な目標は、決して到達不可能な目標ではない。

学ぶべきことを学んでいけば、逃げずにいれば、到達可能な目標だと思う。

同じように、この土地で自助グループを根付かせるということも、具体的で到達可能な目標だったんだなと、私は今になって思えるようになった。

私は良いリーダーとか、良いカウンセラーとかには、なれないと思う。それでいいと思う。

それは到達不可能な目標だと思うから。

今私がリーダーとしてすべきこと、カウンセラーとしてすべきこと、

つまり、目の前の方のために援助になる行動をするということ、そういうひとつひとつの具体的な行動が、

私を良いリーダーへと、良いカウンセラーへと、導いてくれるのだろう。

 

優越性の目標は、たとえ建設的であり貢献的であったとしても、

私の満足、私の快楽、自己執着に過ぎない。

少しずつ、この優越性の目標という厄介なものの手綱を握ろうと意識できるようになってきた気がする。

だがまだ、コントロールすることは大変難しい。実践するしかない。

たくさんの仲間と共に学び合う場があること、素敵な関係があること、本当にありがたい。