子どもたちと過ごす週末が終わって、本を読みながらこたつでうたた寝していると、
久しぶりに夢を見た。
図書館で借りた本の地図が破られていた。
その破られたページの部分を何枚か、誰かから受け取り、貼り合わせて確認してくれと頼まれた私は、
本を広げられる場所を探して、ある人と一緒に人混みを分け入っていく。
荷物を開けるように言われたり、食事をしようと引き留められたり、私の動きは監視されているようだ。
ここは私を先導して行く彼の宿舎なのだろうか。
部室や休憩室、図書室や音楽室を通り抜けて、色々な人に話しかけられながら、
私の持っている本と破られた地図を探している追っ手をまきながら、私たちは逃げていた。
仮眠室に入って、鍵をかけた。
本を開けて地図を貼り合わせようとするも、うまくいかない。
破られたページを持っていることが見つかったら、捕まってしまう。
どこかに隠そうということになって、私は本を仮眠室のベッドの下に押し込んで、
その破られたページを上着のポケットに入れて、彼が誰かに預ける荷物に紛れ込ませようと言った。
扉が開く。追っ手が入ってくる。怪しまれる私たち。
荷物を確認していたんだと言い訳する彼。
外に出て、たくさんの荷物を車に積もうとすると、この荷物はもらっておくと追っ手がいくつかのカバンを物色し始めた。
横に立ってその様子を見ながら、私は彼の上着のポケットと、別のカバンの中に、破られたページを滑り込ませた。
手が思うように動かない。紙のページが信じられないぐらい重い。
何してる!と言われて、
目が覚めた。
心臓がバクバク鳴っていた。
精神科医であり小説家である加賀乙彦の、犯罪者についての本を読みながらうたた寝をしたせいだと思った。
私は犯罪者として捕らえられるところだったんだろう。
人に隠れて生きることは、こんなにも恐ろしい気持ちなのかと思った。
「悪いこと」はしたくないと思った。
けれど、「悪いこと」は、社会の共通感覚によって決まる。
私が良いことを為そうとすること自体が、政治的に思想的に犯罪のカテゴリーに入れられることが、
かろうじて今の日本では起こらないが
戦争下、占領下、別の社会下では起こり得る。
アドラーは精神病者、神経症者と並んで、犯罪者と自殺者も共同体感覚の希薄な人間だと位置付けている。
だけどアドラーの言う犯罪者とは、人類に対する犯罪を犯す者なのだろう。
社会のルールによって罪になるかどうかが変わるような、政治犯、思想犯が当てはまることはなさそうだ。
ウィーンに住むユダヤ人であるアドラーはナチの手から逃れるために渡米したのだから、そのことは前提としていただろう。
つまり、犯罪とは自分の利益のために人に害をなす暴力・暴言等の行為である。強盗、恐喝、詐欺、殺人、強姦、などなど。
夢の中で私は、何を守ろうとしていたんだろう。
大事なものを守るのなら、自分が罪に問われないことを目指してはいけない。
ギリギリの状態でも、私はもう少し踏ん張って、嘘を吐いて、あの地図を隠し切ってみたかったと思った。
人類に対する犯罪を大規模に犯せば、その犯罪者集団が社会のルールを設定できるようになる。
何の罪も犯していない人々が、裁かれて捕らえられる。
人類が何の成長もせずに繰り返してきた歴史だ。
これを抜け出すためには、科学がどれほど無力であるかわかるだろう。