暴力について

今日もまた、ウクライナ侵攻についての岩田温チャンネルのYouTube動画の紹介。

長い動画なので、お時間のない方は20分20秒あたりからでも見ていただけたら嬉しい。

ウクライナ侵略戦争が炙り出した中露の本質・・・ 力の信奉者 。 中国総領事の恐るべきツイート !共同通信客員論説委員の本質を見誤った議論。 長島昭久議員の正論(22/2/26) - YouTube

中国総領事が、

「今回のウクライナのことから学んだことは、力の弱い者は、決して力の強い者に喧嘩を売るというような愚かなことをしてはならないということだ」

とツイートしているという。

暴力でもって支配するという思想信条は恐ろしい。

 

アドラー第一次世界大戦ロシア革命を見て、人類は暴力で支配することから脱さねばならないと思い、共同体感覚という思想を提唱した。

現在このロシアの暴力的な全体主義の行動を目の当たりにして、私は他人事とは思えないでいる。

それは、中国という全体主義国家がどのように行動するかという、日本としての問題意識ももちろんあるけれど、それだけではない。

暴力にどうやって立ち向かうことができるんだろうかという絶望的な心境だ。

 

岩田温さんは、この動画の最後の方で、非核三原則ではなくて非核一原則だけが要ると仰っている。

「核を撃ち込ませず」だけだ、と。

効果のある抑止力を備えるために、核兵器を持つべきというお考えである。

確かにそれが現実的な選択なのだろうと私も思う。

暴力を振われないために、相手に媚を売るというのは愚かな手段だ。

暴力を振われないためには、自衛しなければならない。

 

けれど、それは暴力をなくすことにつながるのだろうか?

…弱い者が強い者に追従するという構造があれば、力の行使という手段が選択されやすくなる。

その弱い者も、自分より弱い者に対しては必ず力を行使するだろうから、暴力に屈してはならないと思う。

では、互いに武力を持てば、戦いになったらお互いに大変な目に遭うだろうから、暴力を使うことをお互いにあきらめ合うということを信じていいのだろうか?

人はそんなに論理的に行動する生き物だろうか?

愛し愛されて人々の間に幸せに所属している人々には、守りたいものがある人々には、そういう論理が抑止力として働くだろうと思う。

けれど、もしも大切なものが壊されたり、壊されそうになったときは、負け戦であったとしても戦ってしまうのではないだろうか。

また、自暴自棄になれる人々にとっては、抑止力などないだろう。

近年、無差別殺傷事件を起こす人たちは、捕まりたかったからとか死刑にして欲しかったから事件を起こしたという人が多いそうだ。

 

今回、ロシアには、経済的制裁が効かなかったのだ。

貧しいことに慣れている国だし、だいたい、国民のことをなんとも思わない全体主義国家である。

ロシア政府に人道など期待してはならない。

全体主義国家の政府には、人道など期待できない。

目的のために自国民を虐殺する人たちなのだから、経済制裁によって国民が飢えたとしても、政治的決断を変えたりなどしないだろう。

 

 

今、暴力をなくすことはできないだろう。

けれど、私が暴力を使うことなく生きていくこと、そういう生き方を子どもたちに学んでもらうことで、暴力を使わない人が増え、そういう人たちの共同体が広がっていくことは信じてみたい。

全体主義というのは、数の論理である。

暴力を使わない人が、暴力を使う人を圧倒する数になれば、やがて全体主義は崩壊するだろう。

おそろしくお花畑なことを書いている自覚はある。

けれど、極めて論理的であるとも思っている。

社会は、ひとりひとりの心が変わることによってしか変わらないと言ったアドラーと、私は同じ立場に立つ。