昨日のナザレンコ・アンドリーさんのお話の続きの月刊WiLL増刊号の動画。
【ナザレンコ・アンドリー】ウクライナを見捨てるバイデン政権【WiLL増刊号】 - YouTube
ナザレンコさんは在日ウクライナ人の政治評論家。
確か私は、彼のウイグル問題についての発言をFacebookか何かで読んで、知ったのだと思う。
本当に私は平和ボケしまくっているなあと反省させられたのだった。
政治的判断は、無情である。
ビジネスの判断だって、無情である。
それが外交上の政治的判断であれば、より無情にならざるを得ない。
それを、憲法9条があるから日本人は何も考えなくても今のままの暮らしが永久に続けられるなんて、大の大人が大声で言い募るというのは、
その人々すべてが馬鹿でないのなら、よほどの意図があると考えるべきだろう。
この動画の最後の方でナザレンコさんが仰っているロシアとNATOの約束についてだけれど、
日本人のほとんどの評論家、言論人たちはそれについてのロシアの見解を鵜呑みにして、確かな情報として流してきたようだ。
岩田温さんが以下の動画で、その約束について、
どうもそれはロシア側の見解であり、実態は違うという国際政治学者の袴田茂樹さんの文章を元に、説明しておられた。
【ウクライナ最新情勢】プーチンの流すフェイクニュースに踊らされてはならない。毅然とした外交を展開せよ! でも岸田・林ラインでは・・・(22/2/20) - YouTube
岩田温さんご自身も、このプーチンの言葉をそのまま鵜呑みにしていたということを仰っている。
情報をどのように入手し、どのように自分が受け止めるか、とても難しいと思う。
月刊WiLL増刊号から情報を得ようとしている私ではあるが、
実はナザレンコさんが批判している、ロシア側の意見にもとづいて、「プーチンはウクライナ侵攻などするわけがない」と発言した言論人のうちの1人は、
数日前にこの月刊WiLL増刊号の動画で、まさしくそのように発言していた。
他のメディアと比べてみれば保守的で日本の国益を守ろうとしているように見えるWiLLであっても、全く当てにすることはできない。
前提とするものが、保身であれば、人は簡単に情報への色付けを偏らせる。
言論人は、言葉を切り売りして生きている人たちだ。
売れる言葉でもって、生活している。
信念に基づいた言葉、多くの人にとって不都合な言葉を、何の後ろ盾もなく発言することは大変恐ろしいことだと思う。
けれど、言葉に命を賭けずに発言するのなら、それなら一体何のための言論なのかと私は思う。
そういう言論人たちがほとんどである中で、岩田温さんの言葉に対する誠実さに、かろうじて絶望しないでいられている。
おそらくはほとんどの人が、嘘を吐きたくて吐いているのではないのだろう。
嘘の情報を流したくて流しているのではないのだろう。
ただ少しの我が身可愛さが、自己執着が、自分の願望を託した意見が、
事実という情報に紛れ込んでいくのだろう。
そうして作られた受け入れられやすい言説が、レポートとして簡潔にまとめられていき、
あたかもそれが事実であるかのように流布する。
誰もが、見たいことだけを見たいのだ。
自分に都合の悪いことは見たくない。
でも、そこから抜けなければ、自分に降りかかるタスクに向き合うことはできないと思う。
不都合な現実を、どうしても人間は事実を現実を正確に見つめることはできないけれど、
せめて自分に都合よく歪めている可能性を疑いながら、見つめる努力をし続けたいと思う。
そうでなければ、私はこの世界の中で自分の人生を生きることができないのだと思う。
私の情報の取捨選択も偏っているし、誤っているかもしれない。
そしておそらく不快なことばかりを発信しているだろう。
だけど、それが必要だと思っている。
アドレリアンは、嫌われるんですよ。
アドラーは不快なことばかり言ったから、優秀な弟子たちがたくさん離れて行ったのだ。
一生懸命科学としての心理学を作り上げてきたのに、
共同体感覚という思想をアドラー心理学の中心に据えたから。
自分にとってどういうことか、自分のためにどうすれば良いか、ではなくて、
これはみんなにとってどういうことなのか、自分はみんなのためにどうすれば良いのかと考えるべきだと言ったから。
そう考えて行動することが健康な人間であって、自分のことばかり考えて現実から逃げようとする人間は神経症だと言ったから。
北方領土のことなんて、今の日本にとっては大した問題でもないし、別に4島返還でなくて2島返還でもいいんじゃないの?難しくってよくわかんないし。
なんて思って2月7日を何ごともなく過ごしていた私たち。
そのことがもしかしたらロシアの政治的にはウクライナへの侵攻を進めやすくしたのかもしれない、
というナザレンコさんの言葉に対して、私は反論できる言葉を持っていなかった。
私が行動すること、私が行動しないことは、私の思いも制御も及ばないどこかに、誰かに、確かにつながっているのだと思う。