今日は絶対的休日。
ご飯を作って子どもたちと食べて、一緒に本を眺めてうたた寝して、ご飯を作って食べて、みんなで掃除しておしゃべりして買い物行って、ご飯作って食べて、落語見て、お風呂入って、寝かした。
母親業は、まったくもって暇がない。
もう私の子どもたちはほとんどお世話らしいお世話のいらない年齢だけど、それでもやっぱり子どもと暮らすと、何かと用事が生まれる。
ひとり暮らしのくせに、こんな仕事をさせてもらえていることを本当に幸せに思う。
今日は完全にオフモードだった。
頑張ろうとしなくても、ご飯作ったり買い物行ったりできるようになった自分に驚いている。
どうやら私は、オフの状態でも、様々な行動ができるようだ。
今までの私は、緊張度が高かったようだ。
この時間までにご飯を作って、食べさせて、オンライン勉強会に間に合うようにあれをしてしまって…と、
自分のTO DO リストを次々目で追いながら生活していたような気がする。
それに、外に出て、初めての人と出会ったり、初めての環境で過ごしたりすることもとっても苦手で、とても緊張をしていた。
この数ヶ月、お知り合いも見ず知らずの人にもかまわず、自分を売り込みに出かけて行っていた自分が、ほとんど疲れもせずにいたことを思うと
やはり大きくライフスタイルが変わったんだろうと思う。
人に委ねることを学んだことが大きいのだと思う。
全部自分でなんとかしなければならないと、私はものすごく気負って生きていたんだと思う。
だから転機は、パセージリーダーをするようになったことだろう。
メンバーさんを信じて、お任せすること。
それがリーダーの役割だが、私がリーダー養成で一番不得手だと自覚したことだった。
うまくいかないことにぶつかる度、
思いがけないタスクが降りかかってくる度、
自分がとても小さくて、まったく自分の理想とする私とは違って、
どうしようもなくしょうもない人間であることを自覚できるようになった。
私にとって大変なことがたくさん起こって、よかったと思う。
どん底だったとか言っていたけど、私の感じたようなどん底なんて、たかが知れてるなと思うようになった。
やはり私は、本当のどん底を知らないのだと思う。
それは私の強みでもあるけれど、自覚が必要だ。
「ただ側にいることしかできないのです」と心理職の存在意義を定義していた一般の臨床心理学の講義を思い出した。
もっと積極的に、その人が自分で自分の問題を解決し、自分を救い、自分の人生をより良く歩いていけるように、一時期を共に歩いていくのがアドレリアンセラピストだと私は思っているから、
なんて消極的で卑屈なんだろうって思っていたのだけど
今は、それも一面の真実なのだろうと思っている。
自分で自分の問題を解決し、自分で自分を救い、自分の人生をより良く歩いていきたいと思っている人の援助は、できる。
でも、そのように思えない人に対しては、ただ側にいて、私はあなたの味方ですと、ここにあなたは所属していますと、そう信じてもらえたら、それ以上のことはできないのかもしれないと思うようになった。
でもそれは、意味のないことではなくて、人間としてとても大切な体験だと思う。
臨床的枠組みの成立しないところでカウンセリングはできないから、
私はもしかすると新しい職場では、私の目指すような心理職としての務めは果たせないかもしれない。
アドレリアンセラピーは、どうも特捜隊の職場で求められていることではなさそうに感じている。
ただただ傾聴です、時間問わず、24時間いつでも傾聴ですって。
うん…それは効果が出にくいと思う。
はい!って笑顔で返事したけれどね。
私はいつも、理想が高すぎる。
私はその高みを目指していたい。
だけど、そこまで登れなくても、登ろうと思わなくても、それが価値が低いというわけではないのかもしれない。
何かを手放すことも、余力を残すことも、誰かに仕事を譲ることも、どれも、同じように価値のあることだと思う。
価値観が違っていることがわかった上で、相手を裁かず、相手のピッチに合わせていこうと思う。
私の価値観を捨てるということではない。
でもいくらかは、曲げなければならないだろう。
これは、離婚の話を始めた時から、今まで、元夫との付き合いでかなり修行させてもらっていることだ。
部分的であっても、目標さえ一致すれば、部分的な協力が可能だと学んだ。
そうか、私は全て捨てたと思っていたけど、思想的な潔癖性だけは捨てられていなかった。
でもこれは、悩むようなことではない。
限られた中で、私をどのように使っていただくかという、世界の側から考えてみれば突破口が開けるのだから。
私が私をどう使うか、という個人の側からの考え方ではどこかで行き詰まる。
だから私は、いつも半分はオフモードの状態で、静かに世界に耳をすませていようと思う。