うなりと倍音

今日は久しぶりにベイトソンゼミに参加した。

ようやく自分のリズムを取り戻してきたように思う。

 

 

今日のゼミの内容ではないけれど、ベイトソンがモアレについて書いていた。

モアレというのは、すだれを二枚重ねた時、縞模様を二つ重ねた時などに現れる模様のことだ。

そのモアレの一種として、うなりを取り上げていた。

うなりというのは、ピッチの違う音を同時に鳴らした時に現れる音のことだ。

 

高校生の時私は吹奏楽部にいたので、この「うなり」という現象は非常に馴染み深い。

トランペットが下手くそすぎた1年生の頃、

合奏が始まるというのにトランペットパートだけがなかなかチューニングが合わなくて、

学生指揮者の先輩に怒られたことをよく覚えている。

「トランペット外に出てチューニング合わせてきて!先に始めてるから!」

 

音程を一定に保って吹くというのはとても難しいことなのだ。

パート全員でピッチを合わせなければならない。

そしてもちろん、他の楽器のパート、合奏する全員でピッチを合わせなければならない。

トランペットは目立つ音なので、ピッチが合わないとわんわんわんわんうなって、たいへん気持ち悪い。

先輩方は一定の音程を保って吹いている。

私はまず音程が安定しない。

多少なりとも音をまっすぐ伸ばせたところで、大抵ピッチが低いのである。

そこで、トランペットの管の長さを少し短く調整して、ピッチを高くしやすくするのだが、

吹くたびごとに長さを調整したところであまり意味はなくて、

身体の状態、口腔内の状態、息の速さなどなど、様々な条件を調整することによってピッチを変化させるのだ。

それが全くできなかった。

 

パート練習の時などは、先輩方がピッチを低めに合わせてくださったのだが、

今度は過補償が起こっていたのだろう、私のピッチは高くなり、先輩のピッチは私のピッチより低くなり、

結局、ピッチはさらに大きくずれて、わんわんと酷くうなるのであった。

 

学生指揮者の先輩は、「トランペット仲悪いの?仲良く息合わせてくれる?」と仰った。

そんな問題なの?と思ったけれど、

息を合わせるということは、心と身体を合わせるということだと、今はわかる。

技術の問題も大いに関係がある。

けれど、心の問題も大いに関係がある。

ごくわずかなピッチのずれや、タイミングのずれが、音楽をまとまらなくしてしまうのだから。

約50人が出す約50の音が、まるでひとつの有機体であるかのようにひとつの音楽を作るということは、

演奏するということにおいて心と身体がひとつになって全員が息を合わせなければ、達成できないことである。

それは気が遠くなるような困難なことであると思う。

でも、皆の息がぴたりと合って、ひとつの音楽を形づくれた時、これ以上何もいらないと思えるほどの幸せを感じる。

そういう時は倍音が鳴っているのだ。

ピッチが合った音が響き合うと、そこに倍音が現れる。

そういう時、言語化されない不思議な感動に包まれ、私はパラダイスを見る。

 

 

おそらく人間関係もこういうものなのだろうと思う。

どちらもがピッチを合わせようとして、過補償してしまって、余計にうなりが大きくなってしまうことも時にはあるのだろう。

まずは私が、相手のピッチに合わせることだ。

ピッチを合わせるには技術が必要だが、それはお稽古によって必ず習得できる。

相手の音をよく聴いて、自分の音を一定に保って吹く。

うなりが生じれば、相手の音をよく聴いて、自分がピッチを調整することで相手に合わせる。

 

 

先日のオンライン事例検討会で、カウンセリングで抵抗にあった時について話し合った。

素直に抵抗してくださるということもありがたい、という意見が出た。

抵抗は、うなりなのだろう。

クライアントさんとカウンセラーで、ピッチがずれているということに気づかせてくれる、ありがたい現象だ。

ふたりの音がうなったままでは、どんな素晴らしい楽譜を演奏しようにも、聞くに耐えない。

まずは演奏を止めて、うなりを解消させる。すなわちピッチを合わせることが必要だ。

 

互いののピッチが合って、音が響き合った時、倍音が聴こえることがある。

それはカウンセリングでも、グループカウンセリングでも、グループワークでも、オンライン勉強会でも、友だち同士のおしゃべりでもそうだ。

まったく違った次元が広がることが、まったく違った景色が広がることがある。

 

私は人との関わりの中で、倍音を聴きたいのだと思う。

それはとても難しいことだ。

でも、この関係の中に私は生かされているのだと心から感謝する時、

私の音は相手の音とひとつになって、どちらがどちらの音なのか思いなのか分からないほどに溶け合うことがある。

そういう時私には倍音が聴こえている。

 

ある人たちとは決して響き合えないのだと、決してピッチが合うことはないのだと、そう信じてしまいたくはない。

互いに、合わせたくないピッチがあるのだ。

言い換えれば、合わせられるピッチだって、どこかにあるんだと思う。

あまりにずれが大きくて、大きなうなりで頭が痛い。

でも私たちは、楽器を吹くのが下手くそなだけだ。

そう信じてみたい。