渦潮

久しぶりの更新になってしまった。

コロナワクチンの二回目を接種して数日だらだら過ごしたり、

オンライン勉強会のレジュメ作成に追われたり(現在進行形)、

日本アドラー心理学会の総会に参加したりしていた。

昨日はアドラーの著作のオンライン抄読会、

今日はコーラスの練習とベイトソンのオンライン勉強会だった。

 

15日の総会の初日からあまり食欲がなく、

昨晩からやっと調子が戻ってきた。

昨日は一日寝ていた。

ひとりの長距離移動は楽しいが、やはり疲れる。

でも移動による疲れだけではなかった。

 

私にはわからないことが多すぎる。

一体誰が何を攻撃しようとしているのか?

あるいは、誰が何を攻撃しようとしていると思われているのか?

なぜ第三者の立ち合いが必要だと思われているのか?

そこにかかる費用は会費から賄われるが、事前に説明はあったのか?(少なくとも私は知らない)

いつの間に講座の主催者が変更になったのか?

講座を受講しようと計画している自助グループの仲間たちに、どう説明すればいいのか私にはわからない。

 

 

掲示板やSNS上では様々な意見が書き込まれている。

陰性感情が増幅される場となっている。

今回の総会では、そのような陰性感情のぶつけ合いは起こらなかったのでよかった。

その後のすべてのプログラムも、総会前の野田先生の追悼式も、極めて穏やかに進行された。

それはよかった。

 

よかったけれども、にこやかに挨拶し合うその裏で、ネット上では全く違う言葉が交わされていることが怖いと思う。

アクセスする情報源によって、相反する情報たちがそれぞれ事実と呼ばれることになる。

どこまで行っても噛み合わない。平行線である。

 

異なる二つ以上の情報源からの情報によって、その差異によって新しい情報が生まれるとベイトソンは言う。

同じ情報源からいくら多くの情報を集めても、視点を変えたりメタの位置に上がったりすることはできないのだ。

 

 

 

もうずいぶん前から、私は怒りはあまり感じていなくて、見ているのが辛くなっている。

大きな渦に飲み込まれている気分だ。

ここから抜け出そうと足掻けば足掻くほど、苦しくなる。

渦から抜け出すには、流れに身を任せて足掻くことをやめることだという。

そうすると、渦の真ん中に引き込まれて、やがて渦の外へ流れ出ることができるのだそうだ。

 

これまで何か発言することで足掻いていた私だが、この1年は、足掻くのをやめていた。

それで、私の方が正しいということもないのだろうと、わかることができた。

怒りを感じていない状態は、落ち着いていられてよい。

だが、まだ私は渦に流されて目を回しているところだ。

私が怒りを感じそうになることは、私が何か言いたくなることは、私の執着がそこにあるということを示す。

すべて手放して、渦に、相手に、任せてみたいと思う。

私の考えが正しいというわけではない。

私にとって難しいことに挑戦することが、私を質的に成長させるはずだ。

本当は難しくなんてなくて、私がしたくないだけのことだ。

すべきことをする、その勇気が足りなかっただけだ。

相手の話を聴き、相手に任せてみたい。

それでも、怖がらなくても、誰かが私から奪えるものなんてないのだ。

私は何も持っていないのだから。全部捨てたのだから。

闘う気などない。渦から抜け出して、オルタナティブウェイを見つけてみたい。